「……たん……ぼたん……」
「……ん〜?」
「ぼたん。もう朝だよ」
「……ふにゃ〜?」
むっくりと体を起こすぼたん。
薄目を開けて庭の方を見てみたが、外はまだ暗いようである。
とても朝とは思えない。
「何よ〜。まだ暗いじゃんか、もうちょっと寝かせてよ〜」
「何言ってるんだよ、ほら起きて……」
「だ〜か〜ら〜。まだ外暗いじゃんかって……あれ?」
再び布団に横になろうとしたぼたんだが、ふと視界に見慣れない人物がいることに気づき、目をこすった。
まだぼんやりしていた視力が回復し、はっきりとその姿を映し出した時、冷め切っていなかった瞳がぱっちりと大きく開いた。
「えっ、だ、誰!!?」
第一声がそれだったのも無理はない。
彼女の布団のすぐ脇に立っていたのは、9〜10歳ほどの子供だったのだ。
透き通るような白い肌だが不健康な印象は決して与えない。
陶磁器のようにきめ細かく、体にしては若干小さな顔に光る、大きな瞳。
くっきりとした口元に、筋の通った鼻、長いマツゲなど、美人の条件が見事に当てはまっている……そうでいて幼く可愛らしい印象を崩さない。
耳の横で2つに結った長い髪は、僅かにクセがあるもののサラサラと音を立てそうなくらい綺麗だった。
着ているものは、昨日陰陽師の少年が着ていた直衣をそのまま小さくしたようなものだったが、それがまたよく似合っている。
霊界案内人として連れに行ったり、単に人間界へ遊びに行ったりした時に出会った、どの人間よりも可愛かった。
少年の式神だろうか?
いやだが今まで彼が出してみせた式神とは明らかに違うような……。
「あ、あれ? 変だな、さっき蔵馬の声がしたと思ったのに……」
「ここにいるじゃないか。何言ってるのさ」
目の前にいた子供があっさり言ってのけた。
しかし何処にも見あたらない。
きょろきょろと見回しているぼたんに、子供は呆れたように言った。
「……俺だよ、ぼたん」
「え゛……く、蔵馬!!?」
昨日から驚異ばかりが続いたが、これが一番驚いた。
自分が見下ろしている子供は……彼女の瞳には、「少女」としか映らなかったのだ。
その子供が、自分が『蔵馬』だと、はっきり言っているのである。
よくよく見てみれば、髪の毛は赤みを帯びているし、瞳の色も澄んだ緑色だが。
本当にこれが蔵馬だろうか?
しかし、彼がくりくりとした瞳を細め、冷ややかな眼差しをぼたんに向けた瞬間……彼女はこの少女……いや、この少年が蔵馬だと確信した。
この冷たき視線は彼にしか出来ない……長き月日を隔てた狐だけが発する独特のものなのだから……。
「まさか、ぼたん。俺のこと女だと思ったとか言わないよね〜?」
「えっ! ま、まさか!! あ、あはは……」
本当は思いっきり思っていたのだが……冷たい瞳で見据えられては、本当のことなど言えるはずがない。
殴りはしないだろうが、それ以上に恐ろしいことが待っていそうである。
まあ、蔵馬はぼたんが自分を女だと思っていたことくらい分かっていたが……(そうでなければ、あんな問い方はしない。まず自分だと気づかなかったのかとかで問うはずである)。
あえて怒りを抑えているらしかった。
やや乱暴に彼女の目の前に新しい着物を置くと、
「早く着物着て。朝食食べ損ねたくなかったらね」
「ああ、待っとくれよ〜!」
慌てて着物を取り、大急ぎで着付けるぼたん。
蔵馬は一応待っていてくれたが、不機嫌なのは当分直りそうになかった……。
「ところで、蔵馬」
「何ですか……」
朝食をとっている間も、蔵馬の機嫌は悪かった。
視線は落としたまま冷めた声だけで返答してくる……まあその方が怖くないと言えばそうなのだが。
怖いながらも、頭の中の疑問を打ち消したいという気持ちが勝ったぼたん。
意を決し尋ねてみた。
「あんた何でそんな格好してるんだい?」
「……昨日言っただろ。宮中へ行くって」
「まさかその格好で!?」
ぎょっとするぼたん。
まさか子供の格好ならば大丈夫とでも思っているのだろうか?
確かに小柄だが、いくら何でも目立つに決まっている。
白い装束もそうだが、隠そうとしても隠せない美貌……これが目立たないはずがない。
子供になってもそれは同じだ。
しかし、あの妖狐蔵馬がそんな簡単な風に考えるはずがなかった。
「……童殿上として行くのが一番動きやすいからね」
「わ、童殿上?? 何それ?」
「この時代では、元服……10代前半辺りに行う成人式前は基本的には、宮中へ入れないんだよ。ただし見習いとして出仕することがある。それが童殿上といって、それをする子供のことを殿上童っていうんだ。そいつの縁の童ということにして出仕すれば、ある程度は動ける」
首を軽く振って、すぐ横で紙を切っていた少年を指し示す蔵馬。
今、彼が作っているのは屋敷に残していく式神たちである。
随分と丁寧に丁寧に作られている。
それはぼたんにも御簾の向こうの姫にもよく分かった。
やはり屋敷に女2人だけというのは心細いであろうという少年の配慮からであろう。
しかし、ぼたんにしてみれば妖怪に襲われるよりも、姫と2人きりにされ笑いをこらえられなくなってしまうであろう自分の方が、よっぽど怖かったのだったが……。
その後、蔵馬は少年と共に、屋敷を後にした。
言ったとおり、ぼたんは姫とお留守番……気晴らしにオールを直してはいたが、それでも御簾越しに姫と視線が一致する度に腹が割けるくらい笑ってしまいそうになるのであった。
それを見て、姫は何がおかしいのかと不思議に思っているらしいけれど。
「蔵馬殿。お仲間というのは『姫』だけですか?」
宮中へ行く道の牛車の中で、少年が尋ねた。
牛車も、牛車を引いている牛も、牛を引いている牛飼い童も少年の式神である。
これだけたくさんの式神を操るというのは、たぐいまれなる才能があってこそか蔵馬の指導力の高さなのか……いずれにせよ彼が蔵馬の一番弟子であることは間違いないだろう。
「いや、多分だが、後3人いる。宮中にいるかは分からないが一応顔は教えておこう。書き物一式出してくれ」
「はい」
少年はまた懐から紙を取り出した。
切れ目がないので式神ではなさそうだが、武器とも違うようである。
それに軽く息を吹きかけると、紙はあっという間に筆と既に墨のすられた硯、それに三枚の和紙へと変化した。
蔵馬は当たり前のように筆を手に取り硯の墨に付けると、さらさらと和紙に絵を描いた。
簡単な絵だったが飛影たちの特徴をよく掴んでいる。
これならば例え会ったことがない人物だろうと一瞬で分かるだろう。
「結構気の短くて、血の気が多い、感情表現豊かな奴らだ。俺のことを話す時は、人のいない場所へ移動してからにしてくれ。絶対に大声で叫ぶから」
「分かりました。――でも不思議ですね」
「何がだ?」
「女人を連れていられることにも驚きましたが、蔵馬殿に気が短くて、血の気が多い、感情表現豊かなお仲間がいらっしゃるとは思いませんでした」
少しからかうように少年は言った。
蔵馬は怒りもせず、かといって呆れもせず「そういえばそうだな」と言っただけだった。
思えば、この時代の自分では考えられないことだったはずだ。
妖狐蔵馬に、気が短くて、血の気が多い、感情に突き動かされるような仲間がいるなど……少し前にあった黄泉の件で懲りていたはずである。
そのことは少年に話していない。
だが、この時の自分の性格からすれば幽助たちのような仲間がいるなど、少年にとっては不思議なことでしかないのだろう。
「変わられましたね、蔵馬殿」
「……そうかもな」
本当は1000年近くもの未来の世界からやってきたのだから変わっていて当然なのだが……言えるはずがない。
事がややこしくなることこの上ないだけでなく、この時代の者ではないと分かれば、おそらく彼は『この時代の自分』にも大なり小なり連絡を取るだろう。
言うなと言えば聞くヤツではあるが、場合が場合である。
そうなれば必然的に『今の自分』とは別の歴史を辿ることになってしまう。
自分にはそういう記憶はないのだから……。
『この時代の自分』が人間になる運命を受け入れるとは到底思えない。
かくなる上は、そうならぬよう交錯する……つまりは『妖狐蔵馬』と『南野秀一』が一緒になるという歴史は消滅することになる。
病気になった母親も助からないだろうし、飛影も八つ手に倒されてしまうだろう。
幽助や桑原がどうなるかは分からないが2人では四聖獣との闘いで負ける可能性が高い。
ということは、雪菜は垂金に監禁されたままになり、暗黒武術会では戸愚呂Tが優勝して、魔界の境界トンネルが開かれ、人間界は完全崩壊……まあそこまではならずとも、他にも色々あるだろうし……。
(……こいつと最後に直接会ったのは、この少し前……じゃあ、これ以降は影から見ていただけで対面はしていないな。ならば、やはり言わない方が得策か……)
そこまで考えて、ふと蔵馬は、この少年とあまり会っていないことに気づいた。
人間界の妖怪や魔族に対する警戒心が強くなってきたので魔界上層部へ一時身を潜めた時……「もう一度来る」と言っていたような気もするが……。
思えば少々可哀想なことをしたかもなと思いつつ、その方が好都合になるのは皮肉なものだと苦笑する蔵馬。
その様子を少年は見ていなかった。
御簾の隙間から外の景色を伺っていたのだ。
「蔵馬殿。大内裏に入ります」
「分かった」
大内裏へ入ると、蔵馬たちは最初に陰陽寮へと向かった。
とりあえず蔵馬は少年の後ろに控え、しばらく彼と陰陽寮のトップらしい人物との話を聞く。
その内容からすると、どうやらあの姫が物の怪に襲われたのは、これが初めてだったわけではなかったらしい。
これまでに数回とあったとか……その度に守ってきたのだから、流石の陰陽師たちも気力体力ともに限界が来て、それで今回は攫われてしまったと。
寝ずの毎日を送っていた状態なのだから無理もない。
とはいえ、まだ見習いであるはずの少年まで引っ張りだしているのだから、その質も知れたものだが……。
その後、適当に口実つけて蔵馬の童殿上を承諾してもらうと、2人はさっさと陰陽寮を後にした。
彼の美しさ可愛らしさに何人かの陰陽師が呼び止めようとしたが、彼は聞こえない振りをし、その代わり誰にも聞こえないよう小声で少年にもっと急ぐように促したのだった。
「それにしても酷い邪気だな。息が詰まりそうだ」
寮からかなり離れた、人気のない植え込みの影で蔵馬は呟いた。
少年はすぐ側で紙を切っている。
どうやら式神や武器に使う紙のようである。
丁寧に丁寧に一枚一枚……指先が器用に華麗に動くため、そうしているだけで何かの術を行っているようにも見えた。
「ええ。気づいている者は少ないですけど」
「落ちたものだな。腕のいい陰陽師など、ほとんどいない。陰陽寮などあるだけ無駄だ」
「そうは思いますけどね。まあ、こんな事態滅多にありませんから怠けた結果でしょう。私は普段から修行していますから、問題ありませんが」
「だろうな……しかし、これなら変装してくる必要なかったかもな」
「いえ、陰陽寮は落ちていますが、それぞれの大臣や女御が雇っている陰陽師はそれなりに腕が立ちますよ。先日、弘徽殿の女御の殉死した陰陽師もなかなかのものでしたし。ただ、誰もが主人の身に何か起こらぬ以上は動くこともないだけですよ……それより蔵馬殿。良かったのですか? 本名を出して」
女だけでなく男もまた身分の差などで、直接顔を会わせることの少ないこの時代、いくらでも偽名が通じるのだが。
あえて蔵馬は陰陽寮のトップに名を問われた時、本名を名乗ったのだ。
その点での打ち合わせはなかったため、蔵馬が偽名を使わなかった時には、内心かなり驚いていたのだが。
「偽名でも良かったが、本名ならば仲間が気づく可能性もあるからな。もし『姫』以外の三人もここにいればの話だが」
「『姫』にもいずれ噂で届くでしょう。先程の様子では、陰陽寮の者は貴方をいたく気に入ったようでしたから……あっち方面の意味でも」
「迷惑な話だな」
「ごもっともで」