第七話・山頂

 

 

 

 

 そして、その日は何事もなく、夜を迎え、野宿も何事もなく済み、翌朝を迎えた。

 いや……正確にいえば、何事もなかったわけではない。

 

 例えば、昨日の昼食は、蔵馬が他のことを考えている間に、梅流が予定よりも多めに食べかけ、慌てて止めたし。

 夜までに山を下りようと言ったところ、急がねばと思った梅流は、全速力で駆け下りて行ってしまい、慌てて追いつかねばならなかったし。

 予定よりも遙かに早く山を下りられたので、二つ目の山を登り始めたのはいいのだが。
 はしゃぎすぎたせいか、夕食も予定量では到底足りず、蔵馬はまたあまり食べない夜を迎えてしまったり。

 新しく買った寝袋と蚊帳を設置しようとしたら、紐を引っ張りすぎて、ひっくり返ったり。
 その衝撃で、夜の森の特大の音を立ててしまい、周辺の動物を起こして、一悶着起こしたり……。

 まあ、実に濃厚な一日だったというわけだ。

 

 しかし、蔵馬は。
 覚えている限り、人生で一番楽しい一日だった気がした。

 

 梅流と出会ってから、昨日までも楽しかったけれど。
 何より、格子越しでないのが、シロをのぞけば、他に誰もいないのが、一番嬉しかった気がしていた。

 

 もちろん、梅流も。
 一番楽しい一日だったと言えた。

 そして、楽しいという気持ちも、はっきりと理解していた……。

 

 

 

「今日はこの山を越えちゃうんだよね! 蔵馬!」

 朝食を終え(やっぱり、梅流の方がたくさん食べていた)、蚊帳や寝袋を片付けながら、梅流が言う。

 二つ目の山は、昨日超えてきた山に比べれば、標高は高く、傾斜もきつい。
 だが、初日に距離が稼げたので、今から登れば、夜には山の反対側までたどり着けるだろう。

 

「ああ」
「それでそれで! 超えた後は、あっちの山を登るんだよね!」

 指さす先には……一際高い山。

 先端はうっすら白く、雪が残っていることを伺える。
 地域的に、万年雪が残りはしないだろうから、冬の溶け残りだろう。

 

 盗賊妖怪がいるという噂のある雪山。

 しかし、梅流は全く怯えた様子もなく、むしろ楽しそうだった。
 盗賊に会いたいのかと思った蔵馬だったが、梅流の気持ちは別のところにあった。

 

「すっごいね! 寒くなったら、梅流がいた山も真っ白になったけど、あの山はもっと真っ白だよ!」
「そうか。梅流のいたところも雪は降ったんだね」

 標高からして、そうではないかと思っていたけれど。
 毎年、冬が来る度に、寒い思いをしていたのかと思うと、蔵馬はいい気持ちはしなかった。

 しかし、そんな蔵馬に梅流は、

「昨日まで知らなかったけど、あれ、雪っていうんだね。梅流好きなんだ! 真っ白ですっごく綺麗!」

「……そうなんだ?」
「うん!!」

 心底楽しそうに言う梅流に、蔵馬は自分の考えがいらぬ心配だったと、胸をなで下ろしていた。

 

 

 

 そして早朝から、二つ目の山を超え。

 やはり昨日同様、梅流の健脚のおかげで、夕刻には三つ目の山の麓へ到着。
 梅流に疲れは全く見えないが、差ほど急がねばならないわけでもないので、翌日の昼までは、そのまま麓で休憩していた。

 

 というのも、控えめに食べているとはいえ、やはり食糧不足は否めず。
 三つ目の山を登る前に、食糧調達の必要があったためである。

 幸い、三つ目の山から、こちら側へ流れてくる川には魚も多く、山を越えるまでは困らないくらい釣ることが出来た。

 

「……この川が、山の向こう側に流れていたら、問題なかったんだろうけどな」
「蔵馬、どうしたの?」

「いや、何でもないよ。昼からは、最後の山に登るから。雪のある位置にさしかからない程度の位置まで登った後、早めに野宿して、明日は日が昇る前に出立するからね。上手くいけば、明日の夜には最後の山を越えられるだろう。迂回路がどんな道かにもよるけどね。食糧の余裕もあるし、急斜面は避けよう」

「えっと……回り道ってこと?」
「ああ。無理は避けよう。いいね?」

「了解っ!!」

 

 

 

 

 

 そして、夜には予定通り、山頂よりも数百メートル手前で野宿し、迎えた次の日。
 山頂の雪を目指し、梅流の俊足は更に加速していた。

 牢の外での、初めての雪。
 キラキラ輝く白い景色。

 梅流はとても楽しみにしていたの……だが。

 

 

「蔵馬……何だか、変な感じがする……」

 それはそうとしか言いようのない感覚だった。

 

 雪といっても、冬の残り香程度。
 隣の山から見えていた白い部分の半分くらいは、森が途切れ、岩山の白い部分が露出したものだったのだ。
 霧が出ているのも要因だったらしい。

 しかし、梅流が感じていたのは、霧でも雪でもなかった。

 何ともいえない、不思議な感覚。
 いいモノとも、悪いモノとも言えない……いや、そのどちらもが存在するような。

 奇妙な感触……。

 

 

「気分が悪い?」
「ううん、それはないの……蔵馬は大丈夫?」
「……ああ」

 そう答えながらも、蔵馬もまた何かしらの違和感を感じていた。

 周囲に警戒しつつ、足元の川に異常がないことを確認した上で、水筒に水を入れていく。
 あまり長居しない方がいいような気がして、少し急いていた。

 

「そういえば、ねえ、蔵馬」

 ふいに、梅流が問う。

「何?」
「何で、川には雪がないの?」

 蔵馬が水を汲んでいる其処は、昨日釣りをしたあの場所に続いている川だった。
 雪解けと地下水が混ざり合っているようで、とても冷たい。
 蔵馬は三つ目の水筒に水を入れながら、

「ああ。川にはね、雪が残りにくいんだよ。水が雪を解かしてしまうんだ」
「へえ〜、そうなんだ。すっごいね、シロちゃん。――あれ?? シロちゃん??」

 きょろきょろと見回すが。

 

「シロちゃん、何処? 何処いったの!?」

 いない。
 ほんの少し。
 目を離しただけで。

 シロが。
 いない。

 

 

 

「蔵馬っ! シロちゃんがっ……梅流、探してくるっ!!」
「あ、梅流、……走ると危な、」

 言い終わる前に、梅流の姿は消えていた。

「は、はやい……」

 呆気にとられながらも、蔵馬もすぐに後を追ったのだった。

 

 しかし、全力疾走している梅流は、後方から蔵馬が呼んでいることにも気づかず、更に速度を上げた。
 いくら常人離れした体力の持ち主とはいえ、人間の蔵馬が追いつけるはずもない。

 最も、梅流が一体何≠ネのかは、分からないけれど。

 

  「シロちゃーんっ!! 何処行ったのー!! シロちゃーん!!」

 少なくとも、シロの名を呼び、左右に首を振って探しながら走っているのに、蔵馬がどんどん引き離されていくくらいの脅威のスピードの持ち主であることは確かだった。