序・少女

 

 

 

 遥か昔。
 歴史にも残らない、不思議の地があった。

 歴史にも残らなかったため、名前は残っていない。

 ただ、人間と動植物、そして妖怪が共存する世界であった。
 相反する者を忌み嫌うのは、他と違うものを拒絶するのは、ほとんどの生き物においての性。

 種族の違いを超越した生き物たちが織り成す幸福な日々は、まさに理想郷であった。

 

 

 しかし……いつから始まっていたか分からないその世界に、20年ほど前から、異変が起こった。

 陰陽の均衡が、大幅に崩れだしたのである。

 原因は全くの不明。
 人間にも、動物にも、植物にも、妖怪にも。

 ……はるか空の上、天上界≠ニ呼ばれるところから、その世界を地上界≠ニ呼び、長年見守ってきた神たちにも、全く分からない事柄だった。

 

 

 

 分かっていることは、たった一つ。

 陰陽の均衡が崩れるというのは、人間にも、動物にも、植物にも、そして妖怪にも。

 いい影響を与えるモノではないということだけ。

 

 そうなると、原因が分からずとも、結果は誰にでも見えてくる。

 

 植物たちは、種をごく少量しかつけなくなった。
 大きく成長するのを、やめた。
 葉を落とさなくなった。

 動物たちは、子を極力産まないようにした。
 激しく動くのをやめた。
 できるだけ、息を潜めるようになった。

 森の時間はとまった。

 

 人間たちは、野生から離れた。
 陰陽の影響を受けにくい、機械化された街を目指した。
 体内の陰陽を……霊気を、化学でコントロールするようになった。

 自然を捨てた。

 今までも、極一部では、当たり前だったこと。
 だが、それが段々と全ての常へと変わっていったのだ。

 

 

 

 それでも。

 妖怪たちよりは、ずっとマシだった。

 人間の霊気とは違い、妖怪の妖気は、簡単に機械でコントロールできるものではなく。
 また、化学との相性も極めて悪く。

 陰陽の均衡が崩れると、その影響をもろに受けてしまうのだ。

 それはある種の毒……。
 彼らにとってこれは、死活問題……いや、本当に直接死≠ノ直結する事柄であった。

 幾人もの妖怪たちが、事態を止めようと動いた。
 あらゆる手段を使い、原因を探ろうとした。

 

 だが、その全ては……無駄の二文字に終わった。

 

 

 妖怪たちに残された道は、2つ。

 破滅を受け入れ、滅びるか……。
 直接的な解決策にはならずとも、一時的にでも、自らの妖気を高めて、陰陽の均衡を正すか。

 そのどちらかだった。 

 

 

 

 そして、彼らは選んだ。

 全員が同じ道を選んだわけではない。

 

 滅びを選び、朽ちた者もいる。
 やけになったのか、自然を受け入れたのかは、それぞれだったが。

 また、今現在に至っても、選べずに迷っている者もいる。
 中には、まだ選ぶ必要性のない者たちもいた。
 人間よりも陰陽の影響を受けやすいとはいっても、その中でもかなりの個体差があるため、迷っていてもいい者たちもいるのだ。

 

 だが、迷っている時間がなく、あるいは迷うことなく。
 破滅を受け入れない者たちもいた。

 

 生きたい。

 その気持ちは誰にも否定することは許されない。

 

 しかし、彼らが生きる道を選ぶということは……根本的な解決策でない、一時的な安寧を求めるというもの。

 その方法として、一番手っ取り早いのは。

 ……共食いだった。

 

 

 同じ妖怪、既に陰陽の均衡は崩れている。
 それでも生きている以上、肉体には陰と陽、二つの妖気がしっかりと存在しているのだ。

 それを食らえば、一時的にではあるが、体内の足りない方の妖気を増幅させることが出来た。

 陰陽の均衡を若干元に。
 つまり、生きられた。

 

 どれだけの期間保てるかは、これもまた個体差が激しい。
 一度食ってしまえば、死ぬまで食わなくても問題ない者たちもいた。
 一年おきに食べねば保たない者たちもいた。

 ……中には、一日1人でも追いつかない者もいた。

 

 

 共食いの果てに、妖怪たちは激減していった。

 妖怪が減るということは、すなわち気の供給源が減るということ。
 残り僅かな食料を争うように、彼らは共食いを続けた。

 けれど、数が減れば、それだけお互いに出会う機会も少なくなってしまう。
 獲物を求めて徘徊しても、襲うどころか影を見つけることすら出来なくなってしまうまで、あまり時間はかからなかった。

 

 そして、妖怪たちは行動を変えた。

 一度にたくさんの妖気を得られなくてもいい。
 いや、妖気でなくてもいい。
 僅かずつでいい。
 ほんの少しずつでも、気を得られれば……と。

 

 新たな標的となったのは……人間だった。

 

 

 

 動物をターゲットとした妖怪たちも、もちろんいる。
 数であてようと、植物から得ようとした妖怪もいた。

 彼らにしてみれば、陰陽の影響を一番受けにくい人間は、最も獲物として不足しているように感じたためだろう。
 理屈で考えれば、確かにそうなる。

 

 しかし、人間の中にも、妖怪に勝るとも劣らぬ強大な霊気を持つ者もいたのだ。
 そういった人間たちは、あまりに強く、食らうことが難しいことが多いけれど。

 逆にいえば、弱い人間であっても、多少の霊気は持ち合わせているということ。

 一時しのぎ、とにかく何でもいい、生きるためならばと考える妖怪たちは……躊躇わなかった。

 

 

 彼らにしてみれば、生きる手段に他ならない。

 だが、当然のことながら。
 「妖怪が人間を食べる事」は、人間に「妖怪は敵」という観念を植え付けてしまうものだった。

 妖怪との共存を不可能と確信するまで、時間はかからなかった。

 

 人間は己の身を守るため、妖怪を斬る。
 同時に、人間に手を出していなかった妖怪たちでさえ、いずれ襲う可能性のある危険生物として、問答無用で斬るようになってしまった。

 妖怪は生きるために人間を喰らう。
 同時に、人間に手を出していなかった妖怪たちでさえ、人間に斬られることを恐れ、斬られる前に襲うようになってしまった。

 

 もはや、その世界は幸福の世などではなくなっていた……。

 

 

 

 

 

 

 そんな中。

 東の都より、ほんの少し西に位置する山に。
 決して奥深くはないが、およそ500年ほど前から、「何か怖いモノがいる」という言い伝えがあり、誰も近づこうとしない山の頂に。

 

 世間との交流を絶たれた、一人の少女がいた。

 

 

 くるりと巻いた黒髪と、大きな黒い瞳を持つ少女。

 長い時間、彼女は一人でそこにいた。

 人間では到底生きられぬ、長い時間を。

 

 

 

 名は……忘れてしまっていた。