「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」

 

 梅流がそう言えたのは、蔵馬が言葉を発してから、随分経ってからだった。

 

 

 

 

 

 3.ひさしぶり

 

 

 

 

 

 ――ここのところ、父の具合が悪かった。

 

 といっても、風邪を少しこじらせただけで、命に別状はなかった。

 けれど、早く治るにこしたことはない。
 サンタローズにいる薬師が、凄腕だという話を聞いて、幾年かぶりに村を訪れたのは、昨日の日暮れのこと。
 薬師は留守だったため、宿屋に1泊した。

 

 今朝になっても、薬師は戻っていなかった。

 小さな村である。
 特にさせてもらえる仕事があるわけでもなし。
 薬師が戻るまでどうするのかと母に問えば、

「母さんの古い知り合いの家があるから、行ってみるかい? 最もまあ、主は留守だろうけど」

 と言われ、そのままの足でその家へ向かった。

 

 煉瓦の家の扉をノックすると、恰幅のいい中年の男が現れた。
 母の古い友人に仕えていたという彼は、梅流のことも覚えていると言ったが、残念なことに梅流に彼の記憶はなかった。

「ごめんなさい」と謝ったが、彼は仕方がないことだと言ってくれた。

 何せ当時の梅流は、よちよちと歩ける程度の子だったというから。
 それでも梅流は、覚えていないことを申し訳なく思い、昼ご飯は1人で作ると言い張り、借りた台所へ立った。

 結果はまあ……子供が作る料理だというくらいだったが。

 それでも彼は美味しいと言って食べてくれた。
 若干、こめかみが引きつっていたのだが、梅流は気づいていなかった。

 

 

 

 その後、後片付けもやると言ったのだが、母がやるからと言われて――それこそ台所がものすごいことになっていたからだが、梅流は無自覚である――退屈なので、しばらく外で遊んでいた。

 そこそこ広い庭なので、子供には興味惹かれる環境だった。
 けれど、綺麗に整えられた芝や植木、菜園などに幾度もツッコミかけては、慌てて急ブレーキをかけることを繰り返して。
 あえなく、断念。

 

 2階へ上がってもいいと男が言ってくれたので、登らせてもらった。
 そこはシンプルだけれど、居心地のいい空間で。
 何より、本がたくさんあった。

 もちろん、まだ幼い梅流にはほとんど読めないものばかりだが、背表紙が簡単な言葉なのを引き出してみれば、絵本が幾冊かあって。
 開いてみれば、これがなかなかにして綺麗な絵なのだ。

 高い棚にある本には手が届かないため、椅子を引っ張り出してきて、夢中で読んだ。
 窓の前を小鳥が横切ろうが、虫たちが合唱しようが、日の光が「夕焼け」にかわっていこうが。
 全く気がつかないくらい、夢中だった。

 

 

「て、ん…くう…の……これ、何て読むんだろう? …しゃ、さま……よく分からないな〜」

 分からなかったが、絵の美しさだけはよく分かった。
 とりわけ、大空と立派な騎士が描かれた大きな絵が、梅流はとても気に入っていた。

 

「読めたらいいのにな〜。あ、このページは読めそう!」

 先ほどの絵とは違い、小さなコロコロとした生き物たちが描かれている。
 可愛さに心躍らせながらも、ゆっくりと文字をおっていく。
 簡単な文字は、幼い梅流にも読めるものだった。

 読めるということは、絵を見るだけとはまた違った感慨を呼ぶ。
 梅流は更に絵本にのめり込んでいった。

 

 

 

 そして。
 そこから抜け出したのは、本当にたくさんの絵本を読んだ頃だった。

 半分だけ開けっ放しになっていたドアが、開かれた音が、やけに遠くに聞こえた。
 ドアを振り返ったのは、いつもそうしているから起こる反射であって、その時の梅流はまだ絵本の世界にいた。

 

 現実へと戻ってきたのは。
 その邪気のない黒い瞳に、彼の存在が映し出された時だった。

 

 

 

 

 

「久しぶり、梅流」

 

 彼がそう言うまで、どれだけの時間、沈黙が降りていたのかは分からない。
 そして、彼がそう言ってからも、梅流はなかなか言葉を見つけられなかった。

 

 

 

 混乱していた。
 思ってもみなかった。

 だって、彼がここにいるなんて。

 

 

 

 『久しぶり』という言葉の通り、彼に出会ったのは、これが初めてではない。
 初めて出会ったのは、数年前のことだ。

 幼い梅流にしてみれば、短い人生の中で、おそらくは一番『最初の記憶』。

 出会った場所は何処だったか覚えていない。
 ただ、親が宿屋を経営しているため、滅多に町から出ることもなかったから、故郷のアルカパだと思っていた。
 それにしては、彼の背後に広がる景色は、町の何処にもなかったけれど。

 でも出会った場所など、どうでもよかった。

 

 

 一緒にいたのは、たったの一日。

 それも何かをしたというわけではない。
 ただ、一緒にいただけ。

 庭で遊んだり、川で水遊びしたり。
 大人に内緒で、村の奥にあるという洞窟へも行こうとした。
 流石に入り口に番をしている青年がいて、通してもらえず断念したが。

 夜になると、一緒に食事して、一緒に後片付けをして。
 まだ小さかったから一緒にお風呂にも入って、一緒のベッドで眠った。

 

 翌朝早く、彼は親と一緒に出かけることになって。
 もっといっぱい遊びたかったが、子供が逆らえるはずもなく。

「またあそぼうね」

 と、何度も言って、指切りして。

 ……それっきりだった。

 

 

 

 梅流の中で、一番最初の一番大事な思い出。
 彼の親の顔も、何処だったのかも、いつ頃だったのかも、覚えていない。

 けど、一度だって忘れたりはしなかった。

 

 彼の顔。
 彼の名前。
 彼の笑顔。

 彼の……ことを。

 

 

 

「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」