「久しぶり。梅流」
その言葉が出るまで、ゆうに数分はかかっただろう。 それほどまでに、彼の衝撃は大きかった。
「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」 少女がようやく言えたのは。 叫んだのは。 蔵馬が口を開けてから、更に時間が経ってからだった。
2.さんたろーずのむら
――ここは、サンタローズの村。 村の背後には高い崖、手前にはそこそこの幅と流勢をたたえる川。
蔵馬が幼い頃、ここにしばらく滞在したのだと、村へ入ってから父が言った。
「仕方ないですよ。ぼっちゃんはまだ小さかったんだから」 仕方ないと言いながらも、男は若干寂しげだった。 まあ、父と彼が交わす会話を聞いてれば、大体昔どういう関係だったのか分かってくる。 それを綺麗さっぱり忘れられたのだから、無理もなかろう。
その後、適当の家の中を見て回る。 家は、ごく普通の一軒家。
やや日が傾いてきたため、地下室への階段はかなり暗くなっていた。 地下室へ降りるのは諦めて、庭を見ながら家の周りを一周する。 庭の日当たりのいい場所では、小さな菜園が色のいい野菜をつけている。
と、扉を引いた途端に、目の前に白い塊があった。 「ああ、ゴメンよ」 上から降ってきた声は、中年女性のものだった。 「いえ、こちらこそ、不注意でした」 ふいに女性が身をかがめてきた。
「もしかして……蔵馬ぼっちゃんかい?」 旅中では、名を名乗らぬ方がいいことも多い。 だが、ここは故郷の村だし、少なくとも自分の家だ。 そうではないということは、彼女は敵ではない。 「おやまあ、大きくなったねえ! お父さんも一緒かい?」 続いた喋り方からして、どうも違うと察する。
「ああ、覚えてないんだね。まあ、無理もないさ」 苦笑いを浮かべながら、女性は己の名を名乗ったが、生憎蔵馬には覚えのない名だった。 彼女の話では、女性と父は古い友人らしい。 台所にいたのは、昼間にあの使用人の男と食事を共にしたので、後片付けをしていたのだという。
「全く、あんたのお父さんも困ったもんだねえ。帰ってきたんなら、教えてくれればいいのに! 居間にいるんだね、どれ行ってこようか」 口はやや乱暴だが、なかなか豪胆な女性のようだ。 彼女に帰還を報告しなかったのも、多分来ていることに気づいていなかったからだろう。
「ああそうだ。蔵馬ぼっちゃん」 台所から出ようとしたところで、思い出したように女性が振り返った。 「はい?」 「あの…こ?」 蔵馬がつっかえながら発した言葉は、女性には聞こえていなかったらしい。
だが、蔵馬はそれらに関心を寄せなかった。 何か……胸がドキドキとするものが、あった。
そして。 台所と居間を繋ぐ廊下にある階段を。 半開きになった木製のドアを押しやって。
山へと沈みかける夕日が、小窓から光りを注ぐ。 部屋にあるのは大きな本棚と、小さな机と椅子、それにベッドのみ。
その部屋の本棚の前に、少女は立っていた。
夢中で本を読んでいたのだろう。
天然パーマの入った黒い髪。 山吹色の胸から足首まであるジャンパースカート。
しかし、その普通さが、逆に彼女の内面を映し出しているようだった。 船で出会ったあの少女に面影を重ねてしまうほどに。
名前だって、そう……。
「久しぶり。梅流」
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