「久しぶり。梅流」

 

 その言葉が出るまで、ゆうに数分はかかっただろう。
 いや、数分の間に思考回路を整理して、その一言を言えただけで、奇跡的だったかもしれない。

 それほどまでに、彼の衝撃は大きかった。
 そして、対する人物の衝撃もまた大きかった。

 

「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」

 少女がようやく言えたのは。

 叫んだのは。

 蔵馬が口を開けてから、更に時間が経ってからだった。

 

 

 

 

 

 2.さんたろーずのむら

 

 

 

 

 

 ――ここは、サンタローズの村。
 蔵馬たちが入港した小さな港から、徒歩で半日ほど北にある小村である。

 村の背後には高い崖、手前にはそこそこの幅と流勢をたたえる川。
 恵まれた地形から、モンスターなどに襲われることは比較的少なく、この規模の村にしては安定した生活を営んでいた。

 

 蔵馬が幼い頃、ここにしばらく滞在したのだと、村へ入ってから父が言った。
 しかし、生憎蔵馬の記憶にはなく、己の家だと言われた小さな家も、そこを守っていたという使用人の男も、蔵馬にしてみれば初めてのものだった。

 

「仕方ないですよ。ぼっちゃんはまだ小さかったんだから」

 仕方ないと言いながらも、男は若干寂しげだった。

 まあ、父と彼が交わす会話を聞いてれば、大体昔どういう関係だったのか分かってくる。
 幼少時――といっても、右も左も分からないどころか、やっと走れる程度の頃だったそうだが――の蔵馬は、彼に結構懐いていたらしい。

 それを綺麗さっぱり忘れられたのだから、無理もなかろう。
 とはいえ、本当に覚えていないのに、嘘をつくのも、気が引けるので、蔵馬はあえて何も言わなかった。

 

 

 

 その後、適当の家の中を見て回る。
 自宅だというから、遠慮の必要はない。

 家は、ごく普通の一軒家。
 煉瓦造りで、おそらく真冬には降り積もるであろう雪への対策がそこかしこにされていた。
 二階建てだが、地下室もあるらしい。

 

 やや日が傾いてきたため、地下室への階段はかなり暗くなっていた。
 随分と古いようだし、階段自体もかなり急勾配。
 灯りなしで降りるのは危険だろう。

 地下室へ降りるのは諦めて、庭を見ながら家の周りを一周する。
 なるほど。
 男が家を守ってきただけあって、綺麗に整えられていた。

 庭の日当たりのいい場所では、小さな菜園が色のいい野菜をつけている。
 夕日に照らされた赤くて丸い果肉は、見るからに美味しそうだった。
 今晩のおかずにでもなるだろうか……と思いながら、勝手口から家の中へ戻った。

 

 

 と、扉を引いた途端に、目の前に白い塊があった。
 驚き飛び退くと、

「ああ、ゴメンよ」

 上から降ってきた声は、中年女性のものだった。
 見上げてみると、声の主らしい元気そうな女性の姿。
 よくよく見てみれば、先ほどの白い塊は、女性の纏っていた大きなエプロンの腰の部分だと気づく。
 

「いえ、こちらこそ、不注意でした」
「礼儀正しい子だねえ……ありゃ?」

 ふいに女性が身をかがめてきた。
 蔵馬に目線をあわせ、じっとその緑の瞳を覗き込む。

 

 

「もしかして……蔵馬ぼっちゃんかい?」
「はい。蔵馬です」

 旅中では、名を名乗らぬ方がいいことも多い。
 名は『呪』であり、まじないの道具にされることもあるからだ。

 だが、ここは故郷の村だし、少なくとも自分の家だ。
 自宅に怪しい人物がいれば、父が気づいて、とっくに仕留めている。

 そうではないということは、彼女は敵ではない。
 『ぼっちゃん』と呼んでいるし、先ほどは紹介されなかったが、2人目の使用人ではないかと、蔵馬は思ったが、

「おやまあ、大きくなったねえ! お父さんも一緒かい?」
「はい。居間にいるはずですが……貴女は?」

 続いた喋り方からして、どうも違うと察する。
 彼女の話し方は、明らかに先ほどの男とは違っていた。
 少なくとも、主の子に話す口調ではない。

 

 

「ああ、覚えてないんだね。まあ、無理もないさ」

 苦笑いを浮かべながら、女性は己の名を名乗ったが、生憎蔵馬には覚えのない名だった。

 彼女の話では、女性と父は古い友人らしい。
 村の人かと問うたが、それは違うとのことで。
 ここから西へ行ったところにあるアルカパという町に住んでいるとかで、今日は夫の薬をもらうために、薬師がいるサンタローズへやってきたとのことだった。

 台所にいたのは、昼間にあの使用人の男と食事を共にしたので、後片付けをしていたのだという。
 主の知人ゆえ、彼ともそこそこ仲が良いようだ。

 

 

「全く、あんたのお父さんも困ったもんだねえ。帰ってきたんなら、教えてくれればいいのに! 居間にいるんだね、どれ行ってこようか」

 口はやや乱暴だが、なかなか豪胆な女性のようだ。
 父とは確かに気が合うだろう。

 彼女に帰還を報告しなかったのも、多分来ていることに気づいていなかったからだろう。
 つまり、ヌケているのは、どちらにも知らせ忘れた使用人の男ということ……。

 

 

 

「ああそうだ。蔵馬ぼっちゃん」

 台所から出ようとしたところで、思い出したように女性が振り返った。

「はい?」
「2階へはまだ行ってないだろう?」
「まだです」
「なら、行ってやってくれ。あの子、多分まだ2階にいるだろうから」

「あの…こ?」

 蔵馬がつっかえながら発した言葉は、女性には聞こえていなかったらしい。
 そのまま台所を出て行き、直後居間から父と彼女の笑いあう声が聞こえてきた。

 

 だが、蔵馬はそれらに関心を寄せなかった。

 何か……胸がドキドキとするものが、あった。

 

 

 

 そして。

 台所と居間を繋ぐ廊下にある階段を。
 登って。

 半開きになった木製のドアを押しやって。
 中へ。

 

 

 山へと沈みかける夕日が、小窓から光りを注ぐ。
 赤く染め上げられた部屋は、何処か暖かな印象を醸し出していた。

 部屋にあるのは大きな本棚と、小さな机と椅子、それにベッドのみ。
 入り口から、奥まで一望できる部屋。

 

 その部屋の本棚の前に、少女は立っていた。

 

 夢中で本を読んでいたのだろう。
 背が低いために、引っ張ってきたらしい椅子には、本が山のように積まれていた。
 背表紙しか見えないが、おそらくは子供でも読める絵本の類と思われた。

 

 

 天然パーマの入った黒い髪。
 耳の上で2つにくくり、お下げに編んでいる。

 山吹色の胸から足首まであるジャンパースカート。
 腰を灰色のベルトできゅっとしめ、足元には引きしまったショートブーツと、とにかく活動的でシンプルなスタイル。
 唯一の装飾品といえば、両手を飾る大きめの銀の腕輪だが、これも飾り気のない代物で。

 

 しかし、その普通さが、逆に彼女の内面を映し出しているようだった。
 綺麗で可愛くて、汚れのない、純粋な。

 船で出会ったあの少女に面影を重ねてしまうほどに。
 忘れることなど、一度もなかった。

 

名前だって、そう……。

 

 

 

「久しぶり。梅流」