T章 小さな冒険

 

 

 

 

 

 蔵馬が、その少女と出会ったのは、父との旅の道中であった。

 

 

 父の旅の理由は知らない。
 教えてくれなかったというよりは、彼自身があまりに幼すぎた。

 

 物心ついた時から、世界を巡る日々で、その生活に慣れきっていた。
 それが当たり前だと思っていた。

 

 彼にとって、日々を旅するのは、あくまでも「日常」であって、何らかの目的を達するためではなかったのだ。

 

 

 

 だから、その少女と出会ったのも、当時の蔵馬にとっては、日常の一環に過ぎなかった。

 もしかしたら。
 彼女が、本当に平凡な少女ならば。

 記憶にすら、残らなかったかも知れなかった。

 

 

 

 

 

 1.ぎんいろのあのこ

 

 

 

 

 

 ……乗っていた船が、こじんまりとした港に到着したのは、夜が明けてから、それほど時の経っていない頃合いだった。

 そこで降りることは、数日前から父に聞かされていたため、下船の支度は昨日すませていた。
 世話になった船員たちに別れを告げて回ると、父の後について、橋桁の方へ向かう。

 

 と、突然父が立ち止まった。

「どうかした? 父さん」

 父のマントに遮られて、前が見えない。
 ひょいっと小さな身体を脇へと滑り込ませると、橋桁の向こうの方から、誰かが歩いてきているのが見えた。

 

 父よりも年上の男だった。
 蔵馬たちと同じく、旅の衣装を纏っている。

 が、その違いは明白であった。
 そう、子供の蔵馬でさえ、はっきりと分かるほど。

 それほどまでに、彼の装束は立派な代物で。
 衣装の形からして、冒険者ではない。

 おそらくは、名の通った豪商だろうと思われた。

 

 

「おはようございます。ここから船へ? 外洋へですか?」
「ああ、どうも。仕事が一区切り付いたので、一度我が家へ戻ろうかというところですよ。あなた方はここで降りられるのか?」
「ええ。北へ所用がありまして」

 父は決して饒舌ではないが、比較的誰とでも馴染める人柄である。
 しかし、初対面であろうその商人とこうして対話が出来たのは、おそらくあちら側の人の良さもあったと思われる。
 人の上に立つ者、とりわけ金持ちは、貧乏人に対して、辛く当たることが多い中、彼はある意味、特殊な例と言えた。

 

 しばしの間、会話していたが、ふと父が商人の後ろにいた子供に気づいた。

「可愛らしいお嬢さんですね」
「いや……とんでもないおてんばで」
「謙遜されることはありませんよ」

 父が手放しで、人を褒めることは珍しい。
 とりわけ、外見だけで判断するということは、今まで一度もなかった。

 

 少し驚きながら、蔵馬はゆっくりと視線を商人の後ろへとやった。

 

 

 

 

 そして、見た。

 正確には、視線が交わった。

 

 

 

 

 

 少女の黄に近い金瞳に蔵馬が映り、蔵馬の緑の瞳に少女が映し出された。

 

 朝方冷え込むこの季節には暖かな、ふわふわな白のケープ。
 同じボア製と思われる帽子は、色白の小顔には少し大きめ。
 そこから流れ出る髪は、肩を少し過ぎるくらいで……輝く白銀だった。

 確かに、問答無用で「可愛らしい」といえる美少女だったが。
 しかし父がそんな外見だけで判断したとは、蔵馬とて思えなかったし、思うこともなかった。

 

 一目で気づけた。
 彼女が可愛らしいのは、見た目でなくて。

 その瞳に宿る想いが、あまりに汚れがなかったからだと。

 

 

 

「はじめまして」

 ぴょこんっと、商人の前に出てくると、少女はぺこりと頭を下げた。
 年は少し下だろうか?
 間近に来ると、目線が若干下を向いた。

「初めまして。蔵馬です」

 蔵馬が笑顔で軽く会釈すると、少女はにっこりと微笑んだ。

 

 

 

「めるです!」

 その名を聞いて、蔵馬は些かの驚きを禁じ得なかった。
 といっても、元来年よりも落ち着いた彼である。
 ほんの少し、言葉が出てこず、目を見開いた程度であった。

 

「……める? めるっていうの?」
「はい! めのうの『め』に、るりの『る』で、めるです!」
「める……ああ、『瑪瑠』、か」

 逡巡した後、納得したように頷く蔵馬。
 少女――瑪瑠は、蔵馬の様子にきょとんっと首をかしげた。

 

「ああ、ゴメン。……友達と同じ名前だったから、少し驚いて」
「え、わたしとおなじなまえ?」
「その子は、梅に流れって書いて、『梅流』だけれどね」
「蔵馬。覚えているのか? あの子のこと」

 子供らの会話に耳を傾けていた父親たちだったが、蔵馬の言葉に横から口を挟んだ。

「忘れるわけないじゃないか。俺、そんなに忘れっぽくないよ」
「いや、何。最後に会ったのは、もう随分前のことだからな……それより、お嬢さん。今朝はそこそこ波が荒い。手を」

 すっと父が瑪瑠へ手をさしのべた。
 確かに、今日は天気がいいのに、波がそこそこ荒い。

 もちろん大の大人や、日頃旅をしている蔵馬のような子には大したことはない。
 しかし、一般的な子供には橋桁から船へ渡るだけでも、結構な揺れになるだろう。

 が。

 

 

 

「だいじょぶです!」

 そう言って、瑪瑠はその場からひょいっとジャンプした。
 そう。蔵馬と語り合っていたその場から。

 だというのに。
 次の瞬間には、帆柱にかけられたネットをつかんでいた。

 そして、一息入れてから、くるっと一回転し、甲板へと飛び降りたのだった。

 

 あまりの優雅さ…そして意外さに、父の開いた口が塞がらなかったのは、無理からぬことであろう……。

 

 

 

「……本当に、おてんばで。恥ずかしい限りなのだが……」

 呆れながら言う商人に、父はふっと笑みを返した。

「いいえ。元気があって良いではありませんか」
「忝ない」
「では、我らはここで」
「縁があれば、またお会いしよう」

「ばいばーい! まったねー!」
「ああ。またね」

 船の手すりに立ち、手を振る瑪瑠へ、蔵馬も橋桁から手を振った。
 やがて、船は碇をあげ、出航していく。

 

 その間、ずっと手を振り続けていたのは……、

(多分、梅流と同じ名前だからだろうな……それに、何となく、似てる)

 あるいは、再び会うことになる運命を感じ取ってのことだろうか……。

 

 

 

 

「さて。私はここで話がある。お前はその辺りで待っていなさい」
「分かったよ、父さん」

 船着き場を管理する夫婦だろうか。
 彼らに席を勧められたことで、しばらく時間がかかるだろうと察し、蔵馬は外で待つことにした。

 

 

 

「そういえば、蔵馬」
「何?」
「本当に覚えているのか? あの子のこと」
「……くどいな、父さん。俺、そこまで忘れっぽい?」
「いいや。物覚えは良い方だろうが」

 少し躊躇ってから、父ははっきりと言った。

「お前はそれほど他人に興味がある方ではないだろう? 記憶として残っていても、思い出すということは少ないからな」
「ああ、そういう意味か」

 父の言いたいことを理解した途端、蔵馬はふっと苦笑を浮かべた。
 それは子供にしては少し不似合いな……何処か遠くを見るような瞳だった。

 

 

 

 

「思い出してなんかないよ」

 思い出すというのは、忘れていたことを、教えられぬうちに再び知るということ。
 だから、思い出してなんかいない。

 だって……。

 

「一度だって、忘れたこと、ないからね」

 

 それほど、この心の中を、大きくしめてしまっている子だから。
 再び会える日を待ちわびている子だから。

 

 

 

 

 

 ……まさか、この直後。

 数年ぶりに邂逅することになろうとは。
 この時の蔵馬は、夢にも思ってはいなかった。