第T章 小さな冒険
蔵馬が、その少女と出会ったのは、父との旅の道中であった。
父の旅の理由は知らない。
物心ついた時から、世界を巡る日々で、その生活に慣れきっていた。
彼にとって、日々を旅するのは、あくまでも「日常」であって、何らかの目的を達するためではなかったのだ。
だから、その少女と出会ったのも、当時の蔵馬にとっては、日常の一環に過ぎなかった。 もしかしたら。 記憶にすら、残らなかったかも知れなかった。
1.ぎんいろのあのこ
……乗っていた船が、こじんまりとした港に到着したのは、夜が明けてから、それほど時の経っていない頃合いだった。 そこで降りることは、数日前から父に聞かされていたため、下船の支度は昨日すませていた。
と、突然父が立ち止まった。 「どうかした? 父さん」 父のマントに遮られて、前が見えない。
父よりも年上の男だった。 が、その違いは明白であった。 それほどまでに、彼の装束は立派な代物で。 おそらくは、名の通った豪商だろうと思われた。
「おはようございます。ここから船へ? 外洋へですか?」 父は決して饒舌ではないが、比較的誰とでも馴染める人柄である。
しばしの間、会話していたが、ふと父が商人の後ろにいた子供に気づいた。 「可愛らしいお嬢さんですね」 父が手放しで、人を褒めることは珍しい。
少し驚きながら、蔵馬はゆっくりと視線を商人の後ろへとやった。
そして、見た。 正確には、視線が交わった。
少女の黄に近い金瞳に蔵馬が映り、蔵馬の緑の瞳に少女が映し出された。
朝方冷え込むこの季節には暖かな、ふわふわな白のケープ。 確かに、問答無用で「可愛らしい」といえる美少女だったが。
一目で気づけた。 その瞳に宿る想いが、あまりに汚れがなかったからだと。
「はじめまして」 ぴょこんっと、商人の前に出てくると、少女はぺこりと頭を下げた。 「初めまして。蔵馬です」 蔵馬が笑顔で軽く会釈すると、少女はにっこりと微笑んだ。
「めるです!」 その名を聞いて、蔵馬は些かの驚きを禁じ得なかった。
「……める? めるっていうの?」 逡巡した後、納得したように頷く蔵馬。
「ああ、ゴメン。……友達と同じ名前だったから、少し驚いて」 子供らの会話に耳を傾けていた父親たちだったが、蔵馬の言葉に横から口を挟んだ。 「忘れるわけないじゃないか。俺、そんなに忘れっぽくないよ」 すっと父が瑪瑠へ手をさしのべた。 もちろん大の大人や、日頃旅をしている蔵馬のような子には大したことはない。 が。
「だいじょぶです!」 そう言って、瑪瑠はその場からひょいっとジャンプした。 だというのに。 そして、一息入れてから、くるっと一回転し、甲板へと飛び降りたのだった。
あまりの優雅さ…そして意外さに、父の開いた口が塞がらなかったのは、無理からぬことであろう……。
「……本当に、おてんばで。恥ずかしい限りなのだが……」 呆れながら言う商人に、父はふっと笑みを返した。 「いいえ。元気があって良いではありませんか」 「ばいばーい! まったねー!」 船の手すりに立ち、手を振る瑪瑠へ、蔵馬も橋桁から手を振った。
その間、ずっと手を振り続けていたのは……、 (多分、梅流と同じ名前だからだろうな……それに、何となく、似てる) あるいは、再び会うことになる運命を感じ取ってのことだろうか……。
「さて。私はここで話がある。お前はその辺りで待っていなさい」 船着き場を管理する夫婦だろうか。
「そういえば、蔵馬」 少し躊躇ってから、父ははっきりと言った。 「お前はそれほど他人に興味がある方ではないだろう? 記憶として残っていても、思い出すということは少ないからな」 父の言いたいことを理解した途端、蔵馬はふっと苦笑を浮かべた。
「思い出してなんかないよ」 思い出すというのは、忘れていたことを、教えられぬうちに再び知るということ。 だって……。
「一度だって、忘れたこと、ないからね」
それほど、この心の中を、大きくしめてしまっている子だから。
……まさか、この直後。 数年ぶりに邂逅することになろうとは。
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