<心配性> 2
そして翌日。
南野家の長男の部屋に、窓から侵入する影があった。
いつものこととはいえ、不法侵入の上、そこは出入り口ではないはずなのだが…。
当の本人は全く気にする様子もなく、キョロキョロと辺りを見回している。
が、どうやら主は留守のようである。
多分、『はいしゃ』とやらから、まだ戻っていないのだろう。
昨日散々幽助たちが怒鳴りまくったものの、予約制である以上、変更は出来ないということらしい。
夕方に行くと言っていたから、もう日も落ちたし、戻っていると思ったのだが…。
「……遅い」
「何が、遅いんだ?」
「!?」
声に驚き、振り返ると、部屋の入り口に蔵馬が立っていた。
コートを着たままのところを見ると、本当にたった今、戻ったらしい。
驚かせるつもりも今回ばかりはなかったようで、逆に蔵馬の方がやや驚いていた。
しばしの沈黙。
これはかなり珍しいことである。
多少驚いたとはいえ、蔵馬が飛影を前にして、無言でいることなど、滅多にない。
これだけ時間が経てば、コートを脱ぎながらでも、何をしながらでも、からかいの一つや二つや三つや四つ、飛んできそうなものだが…。
しばらくして。
居心地の悪い雰囲気を破ったのは、意外にも飛影の方だった。
「……治ったのか? おやしらず」
「ああ、まだですよ」
「まだ?」
訝しげに蔵馬を見やる飛影。
蔵馬は頬を抑えながら……しかし、今日は苦笑もせず、痛みを堪えている表情で、
「大学病院を、紹介されたので。ちょっと、難しいからと」
「……」
それ以上飛影は何も聞かなかった。
『大学病院』と言われても、よく分からないこともあったが、しかしそれについて聞こうとも思わなかった。
さっきから蔵馬が喋りにくそうにしていることに気付いたからである。
言葉を区切り区切り、なるべく少ない言葉で。
話すだけでも痛いであろう相手を質問攻めにするのは、流石に気が引けた。
「だっ、大学病院!?」
「おい、そんなにひでーのか!?」
蔵馬の家を出てすぐの足で、そのまま幽助宅へ向かった飛影。
幽助はアテにしていないが、多分ぼたんは今日も来ているだろうと踏んでの訪問だったが、『大学病院』の言葉に唖然としたのは、彼女だけではなかった。
毎度来ていたのは、彼女だけではなく、桑原も来ており、彼も驚き、更には自分と同じように『親知らず』という単語に、ぽかんっとしていた幽助でさえ、驚愕の声を上げたのである。
ここに来て、更に蔵馬の様子を思い返し、やっと事態の重要性を把握した飛影。
無理を言ってでも、連行して、時雨のところにでも送り込めばよかったか…などと、オーバーに考えていたが、しかしそんな考えすら、真剣だった。
「大学病院って言ったら、あれだろ? 無茶苦茶ひでー病気の時とかじゃねえのか?」
「手術とかそういうのだろ、大学病院でするっつーと。ってことは、虫歯とかみてえな、削るだけとは違うのか」
「多分、抜くんだよ。親知らずを」
「歯、抜くのか!?」
……親知らずの処置といえば、大概そうなのだが。
やっぱり彼らはほとんど親知らずについて、知らなかったらしい。
「いや、抜くこと自体は珍しくないけど……最近の親知らずなんて、ほとんど歯医者で処置出来るよ。ってことは、よっぽど酷いんだ、蔵馬…」
いや、大学病院を紹介するケースも別段珍しくもないのだが…。
「ねえ、飛影。蔵馬、何か用意してなかったかい?」
「……用意?」
「ほら、鞄に服とか詰めたり…」
「……していた」
いつもより早めに南野家を後にしようとした飛影は、最後に蔵馬が小さめの旅行バックのようなものに、服を詰め込んでいたのを思い返していた。
こんな時に何をやっているのだろうと思っていたが……。
「ってことは、入院するんだ」
「入院!!?」
ぼたんの言葉に、幽助と桑原はめまいがしそうになっていた。
飛影は『入院』自体を知らないが(魔界にも『入院』の言葉はあるのだが、飛影自身に経験がないため、知らないらしい…)、ぶったおれかけている二人を見て、とてつもなく嫌な予感がしていた。
「な、何でだよ……歯ぐらいで…」
「だって、普通の親知らずの治療なら、その辺の歯医者で出来るはずだよ。それが大学病院紹介するくらいだもん。日帰りじゃ、無理なんだ……予想以上に酷いよ、きっと」
「……」
ぼたんの顔が青ざめていることもあり、一同は言葉もなく、俯く。
そんな彼らに追い打ちをかけるように、彼女は半ば放心したように、誰に聞かせるでもなく、ブツブツと呟くように、
「入院するほどって事は、もう歯だけの問題じゃないんだ。歯肉に完全に埋まってるんだろうから、歯肉切り開いて……あ、骨に埋まってたら、顎の骨も砕くのかも……でも神経まで傷つけてたら、口が一生開かなく……」
「もういい!!」
「やめろ!!」
「聞いてるだけで、こっちが痛い!!」
……次の日の夜。
幽助は心配で昨日から眠れず、目を何倍にも膨らましてしまい。
桑原は勉強していても、文字がミミズのようにのたくってしまい。
ぼたんは連れて行くはずの魂を逃がすという大失態を冒して、コエンマに説教されていた。
そして飛影は……。
「ひ、えい? 何…してるんだ。そんな…ところで」
大学病院の一般病棟。
個室ではないが、他に入院患者のいない、空ベッドの並ぶ広い部屋……その中で唯一使われているベッドの主は、ゆっくりと身体を起こした。
見やった先には、いつも自分の部屋でそうしているように、窓から入ってくる黒い影。
土足で病室に踏み込んだのを、蔵馬は咎めることなく、やや呆気にとられて見ていた。
「……終わったのか?」
「ええ…無事に」
とは言うものの、まだ喋りにくいのだろう。
言葉数は昨日以上に少なかった。
痛いということもあるだろうが、それ以上に口が上手く動かない様子。
ぼたんが麻酔がどうとか言っていたから、それのせいだろう。
入院だのは知らなくても、麻酔くらいは知っている。
それを武器にしている妖怪も多いためであるが、もちろんそれを使うほどということで、更に飛影が焦ったことは言うまでもない。
「……痛むのか?」
「まあ…そりゃ多少は…」
「喋るな」
自分で聞いておきながら…と思わなかったでもない。
が、それ以上に、ふと月明かりに照らされた飛影の横顔を見て、思った。
いつにない、真剣で……そして辛そうな表情。
こんな飛影は初めてだった。
怪我をして死にかけた時、殺されかけた時……そんな時とも、何処か違う。
死にかけていないからこそ、殺されかけていないからこそ、なのだろう。
死に至るような重傷を負わされたなら、相手を殺せばいいだけ。
相手を恨めばいい。
それで全てが晴れるわけではなくとも、恨める相手がいるだけで……怒りという感情が浮かぶだけで、飛影は強くなれるのだ。
だが、相手が本人の歯などでは、恨むに恨めない。
それが歯痒くて。
やるせないのだ。
そんな飛影が……すごく、嬉しく思えた。
不謹慎だろうと思う。
あんなに気にかけてくれているのに。
それでも嬉しかった……。
「(……自分に何も出来ないとか考えているのかな? お見舞いに来てくれただけで、十分嬉しいのに)」
案の定、飛影の心中は、
「(くそっ。無力とはこういうことか……見に来たところで、何も変わらんというのに……)」
ではあったが。