その2 待ってる
穏やかな夜の海。
ゆっくりと波が押し寄せては引き上げる海岸。
未だ太陽の影はなく、生き物の気配はほとんどない。
その暗がりに、小さく動く影があった。
「はあ…はあ…」
ヨロヨロと這うように岩へと登る蔵馬。
体力はもう底尽きかけていたし、体中傷だらけである。
追われた時のものもあるが、大半は急流において岩肌に叩き付けられたことによるものだった。
……あの時点で相当の傷を負っていたのに、それが褪せてしまうほど、かの流れは過酷だったといえよう。
「くっ…この…」
自分の身体なのに、ここまで言うことを聞かないのは久方ぶりだった。
血が足りなくて、頭が朦朧とする。
それでもこんなところで気を失っては、海へ逆戻り。
溺死も嫌だが、日が昇れば、敵はモンスターだけではなくなるのだ。
人間が漁に出る前に、何とかしなければ…。
「……ふう…」
何とか波のかからない岩陰に身を滑り込ます。
ずっと背負っていた剣の紐を解き、一通り見て、派手な傷がないことを確認してから、横へと転がす。
途端、緊張から解放された肩が疼いた。
「……った…」
背中からじんわり血が染み出す。
今更だが、鍔元が当たって傷を作っていたようである。
安定しない背負い荷物は、抱えて走るよりもずっと体力を消耗する。
鞘でもあればよかったのだが、生憎あれはコエンマと一緒に燃えてしまったらしい……。
「……流石にここまでは追ってこない、か」
しばらく辺りの気配を窺っていたが、人間はおろかモンスターの気配もない。
流れの速度からして、馬を飛ばしても着くのは日が昇ってからだろう。
しかし、万が一連中の中に魔法使いでもいれば、話はまた変わってくる。
魔法を駆使して、流れに乗れば、そろそろ追いついてくることも可能……だが、その気配はなさそうだった。
「まあ、魔法使い…という雰囲気ではなかったしな…」
苦笑気味に言って、それから一度深呼吸する。
空を見上げ、月がないことを再確認し、呟いた。
「…前の朔月から、14組目か……剣を狙う連中の方が多くなってきたということは……奴が焦りだしている…ということか……」
……彼はもうこんな生活を数年、あの日からずっと送っているのだった。
遺跡を脱出後、這い回って自生している薬草を探し当て、かろうじて体力を回復した後、しばらくはその辺りでウロウロしていた。
ウロウロ…といっても、決して楽な生活を送っていたわけではない。
モンスターとはいえ、まだ子供。
しかし、人間にしてみれば、いずれは自分たちに害なす敵。
子供のうちに殺してしまえと思うのは、自明の理とはいえ、蔵馬にしてみれば迷惑きわまりない話だった。
だが、言葉が通じるのは飛影たちに限られていたようで、蔵馬が何を言っても全く効果がなかった。
まあ元々通じるとは思っていなかったので、最初から話し合おうとしたことなどないが。
通じないと知ったのも、追い回されていた時、前方からモンスターの大群が押し寄せてきたので、いちおう教えてやったが、通じなかったらしく、結局そのまま…ということがあったので、分かっただけというもの…。
更に年月を経て、蔵馬の見た目が美しさを増していくと、今度はその身体を求める連中が相次いだ。
剥製にしようとする者、毛皮を剥ごうとする者、金持ちの娯楽用品にしようとする者……全く現実世界を見ているようで、気分が悪かった。
後は極稀に、他のモンスターと間違われ、人殺しの汚名を着せられて追われたこともあったし、遊び半分に猟を楽しもうとする連中に矢を射掛けられたこともあった。
ついでにモンスターといえども、一度人間側についた以上は、モンスターにとっても敵と見なされるらしい。
何だか、現実でも似たようなことがあった気もするが、そもそも仲間意識などなかったから、気にはならない。
ただ、敵と見なして、襲い掛かってくるのは、とても面倒だった。
そんな連中は、蔵馬がじょじょに大きくなってくるにつれて、実力差を見て諦めていったが……。
しかし。
何よりも一番厄介だったのは。
「……コエンマの剣……それだけの価値があるってことか……」
そう、この剣を…あの濁流の中でさえ、傷一つつかなかった剣を…コエンマの遺品である一振りの剣を狙ってくる連中だった。
遺跡脱出後、しばらくはそんな連中は来なかった。
おそらく連中はこの剣を、遺跡の中で必死になって探していたのだろう。
あのモンスターが自分たちを攻撃してきたことで、入り口も半壊していたし、何よりあの遺跡内は相当入り組んでいた。
更に幾重にか水が流れているところもあったし、剣の一本や二本、元あった場所から移動していても不思議ないと思ったのだろう。
使えもしない剣を、モンスターの蔵馬が…それもあんな小さな子供が持ち出すなど、想定外だったに違いない。
というより、眼中にさえなかったはず。
だからこそ、飛影たちが連れて行かれたのに、自分はほおっておかれたのだ。
……コエンマが死に、モンスターの蔵馬がほおっておかれた時点で、彼は飛影と幽助の生存を確信していた。
そしておそらくは誘拐されたのであろうことも。
当時、一番強かったコエンマが死んだことで、二人が100%無事であることはありえない。
意識が遠のく前に、彼らも深手を負わされたのは見えていた。
あの状態で二人で逃げられたとは思えない。
というか、蔵馬一人をほっといて逃げるような白状で卑怯な真似は、天地がひっくり返ろうがしないだろう。
だが、殺したのであれば、同じように捨て置かれているはずである。
なのに、遺品が何一つない上、焦げ跡は大人一人分だけだった。
たとえ喰われたのだとしても、痕跡が全くないのは、不自然極まりない。
つまり、生きてはいる。
しかし、ここにはいない。
=誘拐された、ということになるのだ。
そして、黙って誘拐されている彼らではない。
誘拐されっぱなしで、やり返さない彼らではない。
絶対に何があっても生き延びる。
戻ってくる、必ず。
そう信じていた。
だからこそ、剣を手に、戻ってくるまで遺跡の近くで待っていようと決めたのである。
……しかし、それから数年後。
色んな連中に追われながら、一人生きてきた蔵馬に、新たな敵が現れたのである。
執拗に剣を狙い、今まで手に入れようとしてきた蔵馬を消し去ってでも、奪い取ろうとする連中が。
見当は容易についた。
連中の中に、蔵馬が脱出した後の遺跡をしきりに出入りしていた奴らがいたのだ。
遺跡を探しつくしても見つからなかったことで、誰かが先に持ち出したという可能性を見出したに違いない。
そしてあの…やたらと気味が悪いくせに、恐ろしいほど強かったモンスター(蔵馬はコエンマが奴にやられたことは知らない)が、ほおっておいた蔵馬の存在を思い出せば……結果は見えている。
日を追うごとに、剣を狙う輩の数は増えて行った。
あのモンスター直々の部下なのか、ただ一時的に雇われただけか、あるいは賞金でもかけられているのか。
多分、今日来た連中は最後の一つだろう。
眼に光っていたのは、上司からの命をまっとうしようとする意志ではなく、己の欲でしかなかった。
……いずれにせよ、この剣には、あれだけの人員をつぎ込むだけの価値があるということ。
「ますます……手放せないな…」
血が止まってきたのを見計らって、蔵馬は立ち上がった。
剣を手に、岩から滑り出る。
草むらへ足を運ぶと、薬草を探した。
「……あった…」
ほっとしながら、口へほおり込む。
精製されていない生の薬草は相当苦い。
しかし、ここ数年喰い続けてきたので、すっかり慣れてしまっていた。
傷は完全ではないが、あらかた塞がった。
それでも、今日一日はあまり動かない方がいいだろうが……。
「……もう遺跡近くへは戻れないな…」
崖下が川になっていることは知っていた。
急流であるということも、先日の雨で増水し、更に酷い濁流になっているであろうことも。
しかし、あの森の地形からして、逃げ場はあそこしかなかった。
数が多すぎて、戦って勝てる連中ではなかったし、かといって他に逃げ延びられそうな場所もない。
仕方なく、崖へと誘い寄せてから、身を投じ、出来る限り追ってこられない状況を作ったのだが……。
ここからあそこへ戻るのは不可能だろう。
海から遺跡へ行くには、かの国の傍を通らねばならない。
幽助がいなくなった後、国王が死んで、第二王子が後を継いだというが、以降母親である皇太后が我が物顔で悪政を強いているという。
国の中も酷いらしいが、その余波なのか、国の外でさえ治安は最悪。
今の蔵馬が剣など持って歩いていては、真っ先に囚われ、剣を奪われてしまうだろう。
だからこそ、これまで必死に避けて来ていたのだが……。
「……仕方がない。遺跡で待つのは諦めるか……」
遺跡が一番いい待ち場所なのは重々承知している。
モンスターであるが故、情報収集も出来ず、探しにいけないのならば、待ちに徹するしかない身。
出来る限り、分かり易い場所で待った方がいいに決まっている。
だが、そこへ行くまでに殺されては、意味がない。
かといって、剣を手放すことも、出来ない。
ならば、いずれ旅をしてくれるであろう飛影たちを別の場所で待った方がいいだろう。
「大陸は渡らない方が……いや、どうせ移動するなら、出来る限り遠い方がいいか」
目の前に広がる海。
剣を持ったまま泳ぐのは、言うまでもなく至難の業。
だが、少なくとも、今さっきは溺れずにすんだ。
持ち運ぶには重いが、剣の形からあっさりと沈むようにはなっていないらしい。
かろうじて浮く程度の浮力があるならば、出来ないこともないだろう。
人の眼のある日の高いうちには泳げない。
やるとすれば、夜。
星で方角を見ようとしても、丁度良い新月は悔しくも今日だった。
だが三日月程度までならば、天体観測するならともかく、光の強い星を見るくらいなら、支障ない。
他にやることがなかったこともあるが、ここ数年、星の動きはつぶさに観察していた。
外の世界とはまるで違うが、動き方も配置も規則性があることは間違いない。
陸地が見えなくとも、方角を知る上で充分な道しるべとなるだろう。
問題は航路。
地図もない、隣の大陸までどれほどなのかも分からない。
いくら方角が分かったところで、そもそもの地形が分からなければ、意味がないのだ。
その状態で海へ出るのは、無謀というか、自殺行為に近いだろう。
「……どこかで地図を盗む他ないか…」
漁船へ潜り込めば、おそらくは見つかるはずである。
本当ならば、貿易船ででも密航したいところだが、あの国は今、ほとんど孤立状態でアテにならない。
現時点で蔵馬が知っている国といえば、あそこだけだし、知っている小さな村や町では船すらもなさそうだった。
たとえあったとしても、身一つならともかく、こんな大きな剣を持って密航など、まず無理だろう。
やっぱり、泳ぐしか、ないようである。
「やれやれ…」
果てしなく暗い先行きだが、蔵馬はため息をついただけだった。
悩んだところで仕方がない。
それに、暗い未来ならば、今まで何度も味わってきた。
伊達に千年以上生きてきていない。
目の前が真っ暗になる思い、幾度となく、してきたものだ。
むしろ、今はこのくらい先に、一筋の光が見えているのだ。
「……待ってるよ……飛影……」
ぽつりと光という名の希望の言葉をつむいだ時、日の光を感じた。
手にした剣がきらりと光を反射する。
年を追うごとに、その重みが軽くなる。
けれど、蔵馬が願うのは、軽くなった剣ではない。
いつしか重みを感じなくなる……望む人の手に渡る、その日を。
外伝「剣の重み」 終