〜外伝 剣の重み〜
その1 傷ついた獣
「いたぞー!! そっちだー!!」
「あの金の斑だ! 追え!!」
「回り込め!! 今度こそ逃がすなー!!」
怒号が響く森の中。
日が落ちた上、月のない夜、星明りと松明の灯りを頼りに、男たちは走り叫んでいた。
驚いた野生動物たちが逃げ出したり、身を竦ませたりするが、彼らは男たちの眼中になく、行く手を阻むように飛び出してしまったものたちだけが毒矢の犠牲となり倒れた。
しかし、男たちは本来ならばエモノとして捕らえるはずの彼らを無視し、通り過ぎていく。
男たちの…どう見ても、カタギでない男たちの狙いは、ただ一つ。
「崖まで追い詰めろ!! あそこなら森が開けてるはずだ!!」
「矢は無駄遣いすんな!! ここまで来りゃあこっちのもんだ!!」
「油断すんな!! あいつはタダのモンスターじゃねえ!」
「殺せ!! でもってあの剣を奪えー!!」
叫ぶ男たちの視線を集めるのは……一頭のモンスターだった。
金の体毛に茶の斑。
長い鬣に長い尾。
その、この世のものとは思えない美しい面……暗い茂った森の中でも、その姿は凛として見えた。
しかし、その白い顔に、今は一筋の線が走っている。
左眼のギリギリ下……後少し避けるのが遅ければ、確実に瞳をやられていただろうと思われる、血の筋だった。
いや、顔だけではない。
首に、腕に、胴体に、足に、尾に……あちこちに傷を負い、更に抜けなかったらしい矢が数本、肩や背に突き刺さっていた。
人間で例えるならば、おそらくまだ十にも満たないであろう幼い獣。
まだ狩りさえろくに出来なさそうな彼。
しかし、男たちが追っているのは……息の根を止めようとしているのは、間違いなく彼だった。
「……くそっ…しつこい……」
悪態つかずにはいられないと、舌打ちするモンスター。
追われる原因はその美しさではない。
彼はそういうのを狙った連中にも追われたことはあったが、今回は違った。
そうでなければ、生け捕りにするのが筋だろう。
毛皮を剥ぐよりは、観賞用にした方が、ずっと高く売れるのだから。
今、彼が追われているのは……小さな脇に抱えた、一振りの武器。
一瞬、きらりと僅かな星明りを反射した、大きなエモノ。
モンスターの彼には到底使えそうにない、剣のせいだった……。
……遺跡で意識を取り戻した蔵馬は、しばしの間呆然としていた。
モンスターどもはいなくなっていたが、同時に飛影も幽助もいない。
コエンマは……目の前の現状を見れば、おのずと答えは出るというもの。
「……」
ここはゲームの中。
いくらここへきてから嫌な予感が耐えなかったとはいえ、最悪の事態は避けられると思っていたけれど……。
甘かった。
そう思っても、今更遅い。
「……あ…」
ふと視線を泳がせていると、コエンマの焼けたベルト飾りの向こうに、彼の剣が見えた。
どうやら本人が焼かれる前に手放したらしく、外からの月明かりを反射する剣に焼け焦げは見えない。
そっと歩み寄ろうとして、
「!!?」
ズキン…
全身に痛みが走った。
耐えきれず、膝を折り、そのまま前のめりに倒れた。
その衝撃が更なる痛みを呼び、思わず身を抱えて、地面を転がる。
当然、その行為自体も痛みになるが、ガンガンと次々に響く痛みは、じっとしていて襲ってくる鈍痛に比べれば、幾分はマシというもの。
奈落にあって修羅を望むといった心境だった。
「はあはあ……」
やっといくらかマシになったところで、蔵馬は地面に突っ伏した状態で止まった。
じんわりとした鈍痛はあるが、それでも呼吸の障害にならない程度までおさまっている。
といってもそれは、呼吸器系に元々ダメージがなかったおかげかもしれないが……。
「くっ……」
今度は無理に起き上がらず、匍匐前進で進んだ。
ほとんど身体全体に痛みがあるものの、損傷の程度は違っている。
まあ、僅かな差…ではあるが。
それでも、少しでも重度の場所を庇い、軽度の場所に叱咤しなければ、ちょっとしたことでも命取りになろう。
一番酷いのは多分両足。
痛みだけでなく、攻撃された時のことを思い返せば、明白なことだった。
連中は蔵馬が打撃攻撃しか出来ないことを見抜いて、ならば足を…と真っ先に砕いてきたのだ。
しかし、どちらにせよ、ろくに反撃出来ずに倒れたのだから、あまり意味のない攻撃だったのかもしれないが……。
足を使わず、腕のみで進んでいく。
肘の辺りの裂けた皮膚を引きずりかけたが、この程度の痛みで身体を揺るがしていては、先ほどの二の舞。
ゆっくり、そしてなるべく身体にダメージがいかないよう、細心の注意を払いながら進んでいく。
そして、
「……」
剣に手が届いたのは、彼が目覚めてから、1時間以上経った後だった……。
それから蔵馬は剣がまだ充分使えることを確認した上で、それを口に咥えて、遺跡を脱出した。
ここのモンスターのレベルは高い。
外の方が幾分低かったはず。
この怪我では、素羅威夢(スライム)にさえ出会いたくないが、とにかくこのまま遺跡にいるよりはマシと思えた。
……安全面でも、肉体的にも…精神的にも。
カシャン…
「はあ…はあ……」
肩で息をする蔵馬。
遺跡はまだ見える位置にある。
出来るだけ早く遠ざかりたいが、気が急くばかりで身体はなかなか動かない。
しかし、これは傷のせいだけではなかった。
「くっ……重い…」
思わず漏れる本音。
だが、それも致し方ないことだった。
蔵馬は今、子猫なのだ。
いくら外ではこの剣の持ち主と大した身長差がないといっても、今は大人と子猫。
体力や腕力といった単純な違いだけでなく、大きさが違いすぎる。
コエンマは易々と使っていた剣でさえ、蔵馬にとってはあまりに巨大。
でかいし、重いし、ついでに全長よりも大きいのだから、相当持ちにくい。
しかも蔵馬はこの姿になって以来、両手があまり上手く使えなくなっているのだ。
常に四つ足でなければならないわけではなく、やろうと思えば二足歩行だって出来るし、前足となっている両手とて使えないこともない。
食事だってずっと犬食いせずに、手で掴んで食べていたくらいである。
だが、外での器用さが損なわれている事実は否めない。
加えて足の傷のせいで、二足歩行は現時点でほぼ不可能。
剣を杖変わりにしようとしたが、重すぎて逆に不安定になってしまう。
結果、口で咥えて、前足で前進するという、とても面倒な体制を強いられているのである。
しかし、手で持っても重いものを口で運ぶというのは、想像以上に体力を消耗する。
野生の獣はいつもそうやっていることとはいえ、彼らは基本的に自分よりも小さなものを持ち運びしているものである。
間違っても、ちょっとした弾みで刃の部分が触れそうになるなんてことは、ない。
そうでなくても、顔にもダメージがないわけではないのだ。
何度顎が悲鳴を訴え、剣ごと倒れたことか……。
……それでも蔵馬は剣を諦めなかった。
諦めるわけにはいかなかった。
コエンマの帰還を熱望しているわけではない。
あんな形で一度死んだ魂が、そう簡単に戻ってこないことは、長年世界の変動を見続けてきた妖狐の彼が一番よく知っている。
けれど……この剣は、きっと。
彼が、使えるはずだから。
……あれから数年の時が過ぎていた。
「よしっ! 追い詰めたぞ!!」
一人の男が叫んだ。
その顔は嬉々とした感情に溢れつつも、欲にまみれ醜悪で、とても人間とは思えないほど、見苦しかった。
しかし、今の蔵馬には、相手の器量の良し悪しやら、内面の感情やらを気にしている暇はない。
高い崖の頂上。
まさに断崖絶壁という言の葉がよく似合いそうなそこへ、追い詰められていたのだ。
高さはざっと数百メートル。
落ちれば、おそらく命は、ない。
けれど……。
「……」
矢を構え、じりじりと距離を詰めてくる男たちを一望した後、蔵馬は小さくため息をついた。
同時に、脇に抱えた剣を、落とさぬよう、剣の柄の紐を解いて体に巻きつける。
剣先が軽く地面を抉ったが、仕方ない。
そして、
「なっ」
「何!?」
驚愕に眼を見開く男たちの目前で、彼は迷うことなく、奈落のように暗い崖へと身を投じたのだった。
「…なんてやつだ、こんな崖を飛び降りるなんざ…」
「やけになって自殺かよ。モンスターの分際で」
驚きの後に来るのは、取り逃がしたという落胆と、もう少しで手に入るはずった剣への未練ばかり。
しかし、後を追って飛び降りるような真似は誰一人しなかった。
「崖下に降りられねえかな〜」
未練がましく、一人の男が言ったが、
「やめとけ。この下は急流だぜ。数十キロ先の海までノンストップだ。しかもやたらと岩が尖ってる。あれじゃあ、剣も使いものにならねえよ」
仲間に制され、今度こそ諦めた。
「ったく。使えもしねえ剣なんざ、置いていけばいいのによ…」
吐き捨てた男の言葉は、確かに正しいかもしれない。
蔵馬に、あの剣は使えない。
何年経とうとも、振るうことさえ出来ない。
いくら本来の質がよかろうと、そんな剣のために命をかけるのは、第三者から見れば、馬鹿げた話なのかもしれない。
それでも……彼は、手放すわけには、いかなかったのだ……。