<絆> 1
「ぐっ……うぐっ…がっ……」
薄暗い洞窟の奥。
旅をする者がよくそうするように、今一人の男がそこで簡易の住居を造り、横になっていた。
住居といっても、固い地面に厚手の大きな布を敷いて、その上に寝、更に上から薄い布を羽織っているだけ。
後は洞窟の天井から滴る水を受けるタライ、その横には水差しとコップ。
旅に使ってきた道具は、適当に荷ほどきされ、適当に置かれているが、あまり使っていない。
それも無理ないだろう。
薄い布も羽織っているとはもはや言えない。
男は何度も寝返りを打つ上、汗だくで、しかも苦しさ故に布を引きちぎらんばかりにつかんでいるのだから。
そんな状態で旅道具の整理など、出来ようはずもない。
「はあはあ…」
苦しさが僅かに収まったところで、上半身を僅かに起こし、水の入ったコップを手に取る。
大半を零しながら、口へと流し込むが、この程度で苦しさが消えるわけもなかった。
むしろ、胃に望んでいるモノ以外が入ったことで、余計に苦しくなったかも知れない。
せいぜいが苦しさに叫びすぎて、渇ききった喉を潤した程度。
それも次の叫びで、あっけなく意味をなくしてしまったのだが……。
長い黒髪を乱し、床に打ち付けて、多くある角が欠けようとも、それよりも苦しみの方が強い。
もし眼が見えていたとしても、おそらくは何も映してはいなかったろう。
この苦しさには視力など無意味。
それは恐ろしいほどに発達した聴覚や嗅覚が無意味であることが証明してしまっている。
……かつて、魔界の三大勢力、三竦みの一人と呼ばれ、恐れられた男。
まるで出会う者全てを、その名の下へ送ってしまうような存在。
盲目の大妖怪・黄泉。
……その成れの果て。
まさかこんな洞窟の奥で苦しさにうめくことになるなど、以前の自分には考えられなかったし、多分他の誰も考えなかっただろう……。
「よく…雷禅はこんなものに……七百年も…耐えていられたな……」
今日何度目かの絶叫の後、ぜいぜいと息を整えながら……実際にはあまり整っていないのだが、呟くように言う。
しかし、人間も妖怪も、実際体験しないと分からないことの方が多いようである。
今、自分はそれを嫌と言うほど実感していた。
空腹。
まさか、誰にでも辛抱できそうな……それこそ、人間でも子供でも、やろうと思えば、一日二日出来そうなことが、こんなに苦しいとは思いも寄らなかった。
もちろん、一日二日というわけではない。
第一回魔界統一トーナメントが実施される数ヶ月前。
あの雷禅の旧友たちの気を見せつけられた、あの日から……黄泉は完全に断食していた。
去年行われたトーナメントが、第二〇三回であり、初回よりトーナメントの行われる間隔は変わっていないと言えば、彼が一体何年モノを口にしていないかは、簡単に分かるだろう。
口にしているのは、せいぜいが先程飲んだような水くらい。
人間以外を食べても、身に付かないと分かっているのだから、他のモノを食べたところで無意味。
雷禅と同じ、食人鬼の類である彼は、人間以外は受け付けないのだ。
…魔界と霊界、人間界が当たり前のように……雷禅が息子に遺した言葉のように、海外旅行気分で往来出来るようになったのは、第五回トーナメント辺りから。
その間ならば、やろうと思えば、妖怪も人間を喰うことは出来たはず。
しかし、それをやろうとする輩は一人もいなかった。
人間を喰った者はトーナメントへの参加資格剥奪……という条例のせいもあったが、実際、人間しか喰えないという妖怪は極々一部の者だけだったのだ。
人間界で知れ渡る食人妖怪などの噂は、コエンマが調べた通り、人間の方から頼み、無理に食べてもらっていたというだけのこと。
霊界から危険視されていた四聖獣の連中でさえ、養殖人間などで胃を保たせることが出来たのだから、考えてみれば当然だったかもしれない。
だが……人間しか食べられない連中は、少なからずいる。
黄泉はもちろんその一人。
その息子の修羅は……違った。
正確には、違えたのだ。
黄泉自身の手によって。
培養器から出す直前に見た、あの巨大な気。
あの瞬間から、断食は決意していた。
しかし、これから生まれてくる息子にも同じ人生を背負わすのは気が引けた。
最もあの時は断食がどれほどの苦しみかは知らなかったが……。
生まれてくることが遅れる覚悟で、あの段階から遺伝子を多少いじり、人間以外のモノでも食べられるようにしたのだ。
そのため、修羅は生まれてから一度も、人間を口にしたことはない。
味には多少興味もあるらしいが、しかし無理に喰いたいとは一度も言わぬまま、楽しそうにトーナメントに参加している。
同じように、食人鬼で人間しか喰えなかった、魔界三竦みの躯だが……。
彼女は幸運にも、異種族と交わり、子を成すことで、体質が変わったらしい。
相手はもちろん、あの邪眼師。
彼は元々食人鬼ではなく、むしろ人間と同じモノを食べる体質だったから、体質変化は容易だったのだろう。
彼らの子も同じように、人間を喰うことなく、過ごしているらしい。
雷禅の旧友たちは元々、食人鬼ではなかったし、雷禅の息子も覚醒遺伝しただけだったので、普通に人間と同じモノを食べているらしい。
その他の小物妖怪たちのことは詳しく知らないが、大きなニュースとなって流れてこない以上、今のところ問題なく進んでいると思われる。
そんな中……自分だけが、こうして変わらぬ体質を抱えたまま、生きている。
今のところは、だが。
何時死ぬか、よく分からない。
だが、長くないのは、分かっていた。
時折、巣立った息子が様子を見に来てくれるが、彼には空腹のせいとは伝えていない。
ただの風邪だとしか。
戦い以外には疎いから、多分分かっていないだろう。
実際、こんな風に苦しみにもだえだしたのは、つい三日ほど前からなのだ。
修羅が最後に来たのは、六日前。
そして見舞いに来るのは、大体十日間隔。
よくよく考えてみれば、修行もあるのに、随分と親孝行だなと、今更ながら苦笑した。
しかし……次に修羅が来る時には……多分、自分は生きていない。
後、四日。
生きられる自信はなかった。
前に浦飯から聞いた。
親父は死ぬその日まで、一度も取り乱さなかった、と。
だから、我を忘れて暴れ狂ったのは、死んだその日にしか見なかった、と。
多分、自分には我を忘れて暴れることはないだろう。
雷禅が暴れ狂ったのは、たまたま挑戦に来た息子に襲いかかってきたためだったらしいから。
今、ここには誰もいない。
襲いかかろうにも相手がいない。
最期までもだえ苦しみながら、息絶えるのだろう。
とすれば、今正にこの瞬間が、そうではないか。