<絆> 3
「……起きたか?」
ふいに声をかけられた。
霊界の使いでも来たのかと思ったが……それにしては、やけに身体が重い。
霊体とは重力が関係ないから、確か軽いどころかそんな感触ないはずなのだが。
「……起きたのか、起きてないのか、どっちか言え」
起きてないなら、返事などないだろうと思ったが、しかしそれよりも驚きの方が強かった。
見えなくても分かる。
はっきり聞こえた、男にしてはやや高い、すんだ声。
懐かしい、鋭く尖った棘のような…そのくせどこか優しい匂い。
滅多に鼓動を変えない、落ち着いた心拍。
こんなものを持ち合わせているのは、一人しかいない。
「蔵馬……」
見えないが、声と匂いと鼓動にひかれ、頭を動かす。
……動かせた。
意識が遠のいてから、身体の何処も動かせなかったはず……。
やはり…霊体なのだろうか?
しかしそれにしては、やはり重い。
動かした瞬間、頭もぐらぐらと揺れた。
「修羅がね、心配して相談に来てくれたんだよ。ちょっと前から、パパが具合悪そうなんだけどって。本人は風邪だって言ってるけどってさ。ああ、修羅を叱るのは筋違いだからな。相談には来たが、ここの場所を問いただしたのは俺だ。結構な方法使ったから、それだけでも気の毒だと思って、目つぶれ。ああ、普段からつぶってるか」
それはそれは、ものすごい形相で迫ったのだろう。
それでは修羅も断れまい。
何千の齢を重ねたキツネの威圧に勝てる者は、今のところいない。
しかし……黄泉はそんなことよりも、蔵馬も半分ちゃかしたような言葉よりも……。
「お前……何故…ここに……」
「はあ? だから言っただろう。修羅が相談に来て…」
「いや、そうではなくて……何故、いるんだ」
「……お前、言葉変だぞ?」
蔵馬の口調は、盗賊時代と変わらなかった。
浦飯や飛影に対する時は、幾分丁寧口調になり、物腰も柔らかい。
影で聞いていて、知っている。
まあ、毒舌は相変わらずらしいが。
だが、今の蔵馬は、自分と一緒に魔界を駆けめぐっていた頃と変わらない。
尊大で偉そうで、残忍さも兼ねていて。
妖狐の…キツネの性質をそのまま現したような、冷たい口調。
それが逆に安心出来た。
変わっていないと思えた。
実際、今の蔵馬は人間の姿でいるのだろう。
匂いと気配で分かる。
身長も違うので、大体の感覚で大きさの違いも分かった。
この姿で会うのは、実に数百年ぶりだが…。
時間が止まっているわけではない。
むしろ動き出したような感覚だった。
ずっとまともな会話も出来ていなかった時間、どれだけ苦しかったか。
「……心配…してくれたのか?」
「別に。ただ、気になっただけだ。しばらくトーナメントにも出ていなかったしな。まさか絶食で死にかけてるとは思わなかった」
呆れ口調でため息混じりに言う。
それを聞いた途端、根本の問題を思い出した。
「それはそうだが……何故、俺は…」
「生きてるのかって?」
黄泉の言いたいことを悟り、変わりに蔵馬。
そして何ともあっさりした答えを返してきた。
「簡単なことだろう? 飯を口に突っ込んだだけ」
「飯って……」
「人間と違っていいな、妖怪は。人間だったら、いきなり飯突っ込んだりしたら、胃に負担がかかって逆にあの世逝き…」
「お前、まさか人間を!?」
がばっと起き上がり、蔵馬につかみかかった。
正確には、つかみかかろうとした。
蔵馬の胸ぐらをつかんだ途端、力が抜けて、ふらっと地面に倒れ込んだのだから。
「……おい、大丈夫か?」
真上から、呆れた声が降ってくる。
あまり心配している様子はない。
それもそうだろう、今の状態で無理に動けばどうなるかは、バカでも分かる。
それをいきなりやったのだから、呆れる方が普通というもの。
ため息をつきながらも、蔵馬は黄泉を起こし、簡易のベッドの上に寝かせた。
同時に、枕元に座るのが、衣擦れの音で分かった。
顔を向けたところで、睨もうにも目が開いていないのだから無駄だと悟り、天井へ向けたまま、言った。
「……まさか…人間を殺したのか? そんなことすれば、いくらお前でも……」
言いながら、口元に違和感を覚える。
水ではない液体。
血の匂い。
歯肉にこびりつく、残りカス。
懐かしい味。
人間の味だった。
口も胃も満足を訴えている。
こんなに満たされたのは、何百年ぶりか……。
人間しか食えない自分には、二度と味わえないだろうと思っていた、至福の味だった。
しかし……手放しに喜べないのも、事実。
いくら食ったのが、自分でも、猟ったのが彼では、罰せられるのは……。
「そんなわけないだろう。今、法に反したことをすれば、いくら俺でも厳罰は免れない」
蔵馬の心音に変化はない以上、嘘は言っていない。
いくら嘘が上手な彼でも、微弱な心音の変動だけは隠せない。
「じゃあ、どうやって…」
他に方法などないだろう。
食人鬼のために肉を下さいなどと言っても、くれる者などいるわけがない。
かといって、死体だったら、こんなに血が滴るわけがない。
死にたての人間でも持ってきたのだろうか?
いや、それでも墓荒らしには違いないから、結局罰せられるのでは……。
あれこれ考えている自分に、蔵馬は苦笑しながら言った。
「生憎、骨や内臓までやる気にはなれなかったから、皮膚と血肉だけで我慢しろ。身体の何処の部分が美味いかなんて、俺は知らないから、とりあえず腕にしといた」
「……!!」
その言葉に全てを悟った。
ざっと顔から血の気が引く。
同時に、無理を承知で再び起きあがった。
ただし上半身だけ。
それで十分だった。
蔵馬の腕をひっつかむと、利き腕でない左手の袖をめくり上げた。
途端、血の匂いが辺りに立ちこめる。
もちろん傷をそのままにしているわけではない。
何重にも包帯が巻かれ、薬草も塗りこんではあるようだったが……。
酷い傷であることに違いはなかった。
何せ、腕の……肘から手首までの肉のうち、半分近くがそぎ落とされていたのだ。
直に触れなくても分かる。
それが命に関わるものではなくても、戦いにおいては致命傷ともいえるほどの傷であると。
「……痛いんだが」
「あっ……」
静かに言った蔵馬の言葉に、慌てて腕から手を離す。
無理に振り払わなかったところを見ると、動かすだけでも痛いのだろう。
まして強引に引っ張られたともなれば、それはかなりの痛みの筈……。
しかし、蔵馬はそのことには何も触れず、
「流石に大量に流すと、傷の治りも悪いからな。まあ、一週間もすれば治る」
「……」
「まだ完全に満腹というわけではないかもしれんが、こっちも出血多量で死にたくはないからな。我慢しろ」
左腕の袖を戻しながら言った。
植物の織り込まれた服によって、血の匂いが隠される。
だが、そういったことに力を回しているせいか、痛み止めにはあまり気を使っていないらしい。
僅かに眉間が動いたのを、筋肉の緊張具合も分かる黄泉には、容易く悟れた……。