<禁句> 1
「あ、兄さん。お帰り」
リビングの扉が開き、本人にはそんなつもりは全くないのだろうが、とても優雅に入ってきた兄を秀一は、ぱっと振り返った。
彼の言葉に、一緒にTVゲームをしていた友人たちもそちらを振り向く。
そして全員がその美しさに、一瞬固まり、次には「いかん、男だ。兄さんって呼んだんだから…」と内心で思い、頭をぶんぶん振り回した。
その様子は見慣れたもので……兄は内心、「またか」と思っていたが、それを顔には出さず、
「ただいま、秀一。友達来てたんだね。いらっしゃい」
笑顔で言った。
声をかけられたことで、何とか正気に戻った友人たちは、
「あ、おじゃましてまーす」
と、普通に返した。
これが女友達であれば、赤面して卒倒するところだろうが、幸いにも秀一が連れてくるのは、いつも男友達だけ。
今年の春、高校生になったが、今のところはまだフリーらしい。
「ゆっくりしていってね」
そう言うと、リビングから立ち去る兄。
その背中を見送り、完全に彼が見えなくなってから、友人はゲームのコントローラーを投げだしてまで、秀一に詰め寄った。
「なあなあ! かっこいいな、秀一の兄さん!」
「一瞬女かと思ったぜ! すっげー、美形!」
「…それ言ったら、多分怒るよ。気にしてるみたいだから」
ちらっと扉の方を見て、兄が完全に行ってしまったか確認する秀一。
扉についたはめ込み式の曇りガラスに人影はない。
どうやらもう二階へ行ってしまったようである。
ほっとしている秀一とは裏腹に、友人たちは次々言葉を投げかける。
もちろん悪気は全くなく。
「でも別にいいんじゃねえの。美人なんだから。うらやましいぜ、さぞもてるんだろうなー」
「そりゃそうだろ。あれでもてなかったら、逆に変だ」
「だよなー。噂には聞いてたけど、実物見るのとは大違いだな!」
「噂?」
かなり盛り上がっている友人たちに、秀一もちょっと興味が湧いた。
身内の噂というのは、意外にも入ってこない。
同じ学校に通ったことがないのも、一つの要因なのだろうが、如何せん年も離れているし、何より実の兄弟ではないため、一緒にいる時間も人生の十数パーセント。
名前に色々と問題があり、各々学校や会社では別の名字を名乗っていることも理由の一つだろう。
これでどちらかの名字がすごく珍しかったりしたら、それはそれで有名かもしれないが、生憎『南野』と『畑中』、ありきたりにも程があるほど、よくある名字である。
これでは二人が兄弟であるということ自体、知らない者の方が多いであろう……。
「噂っていうかさ。事実なんだろうけど、あの盟王高校の主席だったんだろ? 顔いい上に、頭もいいんだな」
「運動神経もいいって聞いてるぜ。天は二物も三物も与えるもんだって、俺の通ってる塾では、伝説だぜ」
「マジかよー、いいなー。その塾、大もうけだったんじゃねえ? 主席出したんだからよ」
「え? 塾生じゃないだろ? 兄さん、塾行ったことないって言ってたけど」
きょとんっとする秀一。
しかし、それに対して友人は否定はせず、
「いや、通ってなかったのは知ってるけど。でも、おんなじ学校の生徒がいっぱい通ってたみたいでよ。噂が流れるのは、早かったみたいぜ。特に女子」
「だろうなー。あんだけ顔良くて、勉強出来て、運動神経よかったら、他に何もいらねえだろうな」
心底羨ましそうに言う友人。
実際、ここまで揃っていれば、普通の人は羨ましがる。
羨ましくないと言う人がいれば、それは相当のナルシストか、嘘つきくらいだろう。
「なあなあ、今は何処の学校通ってるんだ? 大学生だろ?」
「ううん。兄さん働いてるよ、高卒で」
「へ? 高卒??」
友人たちの声がはもった。
明らかに疑問、そして僅かに動揺の声…。
「盟王で高卒!?」
「進学しなかったのか!?」
「マジか!? 主席なのに!?」
「何か、父さんの会社の方が面白かったらしいよ」
理由の真偽は謎だが……しかし、本人がそう言っている以上、そうなのだろうと、秀一は深く追求したことはない。
それに、兄が入ってからの会社は、他の会社が倒産だのリストラだの追われている中、とても安定して上昇の一途を辿っている。
急上昇ではないが、それも多分兄の計らいだろうと、秀一は悟っていた。
むやみに敵は作らない、そうしているのだろうと。
「は〜、すげ〜なー」
「大胆だけど、そういうのっていいな。レールに乗らないのって、男らしー」
「いいよな、そういう兄貴って。俺のところなんて、滅茶苦茶不良でさー」
友人たちが既に神のように崇め始めている兄に、まさか超不良の友人がいるなど、何となく言えない秀一。
別に秀一としては、あのオールバックの人は不良だが結構いい人なので、特に気にしておらず、むしろラーメンを時々おごってくれるなど、いい人だなと思っているが(しかし不良以外の何物でもないとも思っている…)。
「つーかさ。性格も滅茶苦茶いいだろ?」
「だろうな。一瞬の挨拶だけで、すげー好印象」
「うん、すごくいいよ」
とても満足そうに、嬉しそうに答える秀一。
その笑顔に、友人の質問が止んだ。
不思議に思って、友人たちを見渡す。
「どうかした?」
「……なあ、秀一」
「何?」
「お前……兄貴のこと好きだろ?」
友人の一人が尋ねた。
間髪入れずに、秀一は答える。
「うん、好きだよ……変か? この年になって」
「いや。ほっとしてるだけだって。何かよくドラマとかであるだろ? 連れ子同士の…確執って…」
しどろもどろ言う友人。
今時のドラマが好きなのだろう、ありがちの展開を思い浮かべているらしい。
再婚相手の自分の子でない義理の子へのいじめはよくある。
しかし、参観日に来ていたあの母なら、その心配はまずない。
実際、秀一は以前、義母のことも好きだと言っていたし。
連れ子同士の…もよくある。
これが少女漫画で、兄と妹とかになれば、恋愛に発展して云々……だろうが、男同士なので、その心配はまずない。
だが、そうなると兄と仲がよくなれないというのが、よくあるパターン。
会うのは初めてだが、噂でよく出来た人だというのは知っていたから、尚更比べられて…とならないかと不安だった。
しかし、そんな心配は無用だったらしい。
秀一の兄を慕う感情は本物で嘘偽りはない。
ほっと胸をなで下ろした。
が……。
「最初は…そうでもなかったんだけどね」
「そうなのか?」
幾分、表情を曇らせる友人たち。
「うん……本当、少しだけだったけど」
そう言うと、テラスへ抜ける大きな窓に背を預け、空を見やる。
さっきまで高く澄んでいた空だが、日が落ちてきたため、やや暗くなりつつある。
しかし、初めて会った日は、既に夜になっていた。
そしてあの暗闇の中、垣間見た銀色……。
「(そうだ……最初はむしろ……嫌いだったんだ)」
……父が会社の部下との再婚を決意したのは、小学校六年生の時。
卒業式のあった後だった。
実際には五年生の終わり頃から、ぽつりぽつりと一人の女性のことを話すようになっていたため、大して驚くこともなかった。
病弱だったらしいが、それも奇跡的に治り、それが神に与えられた貴重な経験だったように、再婚話もスムーズに事が進んだらしい。
あの内気な父が……とも思ったが、しかし反対の意志は全くなかった。
本当の母は物心つく前に亡くなっている秀一としては、新しい母が初めての母のようなもの。
正直、楽しみだった。
どんな人なのか、ワクワクする反面、母として慕えるだろうかとドキドキもした。
まあそれは問題なかった。
とある夜のレストラン。
初めての顔合わせ。
母は一目で好きになれた。
穏やかで優しくて、か弱そうに見えるのに、何処かしっかりしていそうな雰囲気。
いや、雰囲気だけでなく、顔だけでなく。
何となくだが、この人とは仲良くなれる……そう思った。
が。
問題は別にあった。
相手にも連れ子がいるのは知っていた。
男だということも、四つ上だということも。
しかし……どんな人物かまでは聞いていなかった。
盟王高校の主席。
運動神経も抜群。
料理などの家事も得意らしい。
顔もいいし、穏やかに話す仕草など、性格のよさも現れている。
なのに、気に入らなかった。
悪い所など、一つもないのに……いや、ないからなのだろうか?
人というのは、おかしな生き物で完璧な同性というのは、いけすかないらしいと聞く。
そのせいだろうと、秀一は思った。
あまりにできすぎている男。
それが兄になるなど……信じたくもなかった。
無意識に睨み付けるが、彼はまるで気にしていないように、にこにこ笑っている。
……睨み付けているせいで、嫌でも彼の顔がしっかりと脳裏に焼き付く。
長い髪は普通日本男児には似合わないものだが、彼にはやたらと似合っている。
少し強いクセでさえ、美しさを際だたせてるのだから、腹が立つ。
細い眉は手入れなどしていなさそうなのに、形がいい。
鼻筋も通り、口元も優雅だ。
何より瞳が嫌だった。
奥二重で理知的な緑の瞳。
底が見えないほど、澄み切っていながら、何処か闇が見える。
全てを見透かしたような……笑っているのに、何処か怖い。
自分が嫌っているということに気付いていながら、黙っている。
そんな感じだった。
その瞳が僅かに歪んだのは、本当に一瞬だった。
父があまりに彼を褒めるから(褒めどころ満載なのだから、しょうがないが…)、ついつい嫌みを口にしてしまったのだ。
「本当、秀一さんって完璧なんですね。人間じゃないみたい」
言ってから、しまったと思った。
「こら! 秀一!」
怒鳴ったのは、もちろん父。
母となる人は一瞬黙ったが、すぐ笑顔に戻った。
多分、うらやましさ故の言葉だと思ったのだろう。本当は少し違ったのだが。
当の本人である彼は、母と同じようにしばらく黙ったが、やはりすぐに笑顔に戻った。
でも見逃さなかった。
あの瞳が一瞬だけ、影を落としたことを……。