<泥まみれの翼> 1
ドオオオン!!
「な、何だ!?」
突然の轟音に、ラーメン屋の屋台を組み立てていた幽助は、バッと振り返った。
彼だけではない。
やっと仕事を終えてデートへと急ぐ若い女性。
飲みに行こうとしている中年のサラリーマンたち。
これから塾なのだろうか? コンビニで買ったパンをほおばりながら、歩く小学生。
少々ぐれているらしく、道に座り込んで、タムロしている中学生か高校生らしい少年たち。
その全員が、バッと同じ方向を振り返ったのだ。
当然だろう、あんな大きな音がしては、世ほど何かに集中していない限り、誰でも気付いて、そちらを向くというもの。
だが、その二秒ほど後。
幽助以外の全員が、興味が逸れたように、自分たちの世界へと戻っていった。
ドオオオン!! ドオオオン!!
パーン! パーン!!
「何だ、花火か」
「誰だ? 季節はずれだなー」
「しかも、何か小さいし、あんまり綺麗じゃないね」
と、視線の先に上がった、確かにあまり綺麗とはいえない、ちっぽけな花火を見て、口々に言った。
花火大会などではなく、多分夏に残った打ち上げ花火を、湿気て使えなくなる前に、上げてしまおうというのだろうと、誰も気に留めなかった。
ただ一人、幽助を除いて……。
「誰だ、あんなところで、派手にやってやがるのは!!」
屋台をそのままに、走り出す幽助。
人々の間を駆け抜け、時に突き飛ばすように走り抜け、人通りの少ない路地裏に出ると、人間とは思えないスピードで……というより、魔族なのだから当たり前なのだが、とりあえず猛スピードで現場へ急行。
方向しか分からないが、しかしこの先はしばらく民家が続き、その先は空き地だらけ。
行き止まりまでは一本道のはず。
空き地の雑草はつい先日、業者が綺麗に刈り取ってしまったため、見通しがよく、とりあえず左右に妖しい動きはなかった。
ということは、やはりこの先の……あそこで何かが起こっているとしか思えなかった。
それを行っている人物も、幽助は片方だけならば、何となく見当がついていたのだが。
「蔵馬……」
予感は的中。
幽助が辿り着いたそこにいたのは、案の定、彼の仲間の一人。
現在、社会人であり、同時に妖狐として魔界統一トーナメントで好成績を残し、去年は準優勝までした人物。
南野秀一こと、蔵馬である。
しかし、今の彼に、南野秀一の面影はなかった。
南野秀一という青年は、フランス人の祖母より、隔世遺伝にて緑色の瞳と紅い髪を受け継いでいるはず…。
それに数年前、暑いからという、何とも当たり前すぎる理由で、長かった髪をばっさり切ってしまって、今は短髪のはずである。
初めて見た時は驚いたが、「温暖化が進んでるね。涼しい魔界がちょっと懐かしいかな」などと、暢気で言っていたのを聞くと、やはり中身はそのままだと安心したのを、今でも覚えている。
だが……今の彼は、短髪でもなければ、紅い髪でもなく、緑の瞳でもない。
それどころか、人間の姿ですらなかった。
夜風になびく、銀の長い髪。
闇に光る金色の瞳。
抜けるように白い肌。
獣の耳と長い尾。
妖狐。
彼の前世とも呼べる姿であった。
しかし……その銀髪も白い肌も、白い装束も。
今はその色だけではなかった。
青のような紫のような、奇妙な色の液体。
銀髪にも白い肌にも白い装束にも、全体にではないにしろ、びっしょりとシャワーを浴びたように、染められているのだ。
だが、その色合いがまた、彼の白さと美貌を引き出すようにしているため、いつも以上の美しさに、流石の幽助も一瞬声をかけるのを躊躇ってしまった。
「……やあ、幽助」
しばらくして、幽助が声をかける前に、蔵馬の方が彼を振り返った。
多分最初から気付いていたのだろう、特に驚いた様子はない。
幽助も幽助で、別に気付かれていたことに動揺することもなく、
「よお、久しぶりだな……また襲ってきたのか?」
と、当たり前のように返した。
「大した敵じゃなかった。けど…少し派手にやりすぎてね」
足元に転がる妖怪の死骸を見下ろしながら、言う蔵馬。
奇妙な液体の正体は、この妖怪だったモノから吹き出た返り血らしい。
しばしの沈黙。
というより、幽助が無言だっただけだが……。
蔵馬の方は、しばらくの間、平然と散らばった妖怪の死骸の始末をし、辺りの木々についた返り血を片づけていた。
しかし、幽助が全く喋らないため、不思議そうに、
「どうかしたのか?」
「いや……何か、天使みてえだなって」
「は?」
いきなり妙なことを言われ、怪訝な顔で幽助を見る蔵馬。
だが……本人こそ気付いていないが、今の蔵馬は正に天使そのものだった。
南野秀一という人物は、とても美しく、理知的で、普通の人間にはない雰囲気を持っている。
が、やはり身体は人間なのだ。
いくら妖化していようと、やはり人間でしかない。
力はともかく、人間が、魔界でも最も美しいとされる妖狐の美しさに勝てるわけはない。
血を浴びた銀色の狐。
青も紫も、この銀の前には色褪せ、引き立て役にしかならない。
月光を背に受け、凛と立つ様は、正に天使だった……。
しかし、蔵馬は自分が今、どれだけ美しいかなど、知るよしもなかった。
まあ、人間になる前から、自分が割合整った顔立ちだということは意識していたが……。
だが、今の自分が美しいなどとは、蔵馬には思えなかった。
まして天使などとは……。
「所詮俺は……血で濡れた泥まみれの天使でしかない…堕天使でしかないさ」
寂しげに言う蔵馬。
伏せられた金の瞳が曇り、眉間に弱いシワが寄る。
その様すら美しいが、しかし幽助は言わなかった。
今の蔵馬には……そんな言葉を言っても、仕方がない。
彼は自らの容姿などよりも、もっと深いことを悩んでいるのだから。
「お前……まだ気にしてるのか? その……妖狐になったら、なかなか戻れねえこと」
「……」
「確かにその恰好じゃ、家に帰りずれーだろうけどよ。そんなに気にすることか? 元に戻れなくなってるわけじゃねえだろ?」
「……いずれ、そうなるかもしれない」
「なっ……」
驚愕する幽助。
確かに、ここ数年……蔵馬が妖狐になった場合、元に戻るまでに時間がかかるようにはなってきていた。
最初は蔵馬が自分の意志でそうしているのかとも思ったが、しかし家に帰らない口実まで考えたりしている以上、おかしいと思い、尋ねてみたら、やはり以前よりも元に戻りにくくなっているとのこと。
だが、いくら時間がかかるとはいえ、今まで元に戻れないことなどなかった。
だからこれ以降も、時間がかかるだけで、当たり前のように戻れる……そう思っていたのに。
「マジ?」
「ああ。最近……妖狐になる機会が増えているからね。低級妖怪とはいえ、俺を怒らせるには、十分すぎる」
「……魔界の穴の影響だっけ? 日本のがでかくなってて、自然発生する低級妖怪が増えてるって」
幽助の言葉に、ゆっくり頷く蔵馬。
「魔界との結界が消えたことで、日本の暗黒期が急速に迫ってる。まあ、その分じわじわ来るわけではないから、終わるのも一瞬だろうけど。ただ問題は、低級妖怪どもだ。煙鬼の法案を認める認めない以前の連中。俺たちで退治するしかない奴等……」
「でもよ。ばいおりずむとかいうヤツの影響で、妖狐になりやすいのは聞いてるけど。でも元に戻れなくなるなんて……」
「幽助には言っていなかったかもな。俺は妖狐になるたびに、南野秀一の生命力を削ってるんだよ」
「えっ……」
「よって、妖狐になるたびに、南野秀一は弱っていく……最終的には、消えるだろう」
空を仰ぎながら言う蔵馬。
未だ、姿は妖狐のまま。
幽助と出会った頃なら、十五分ほどしか妖狐になれず、逆に苦戦を強いられていたくらいなのに……。
あの時は、「もう一度あの姿に……」などと思ってたのに。
今は、この姿が、少しだけ疎ましい。
もちろん、今の姿が嫌いなわけではない。
正直、戦いには向いている身体だし、幽助たちの前では、こちらの姿でも何も問題はないのだ。
例えどれだけ自分の手が汚れようと、堕天使になろうと、自分自身を嫌っていては、生きていけない。
ただ……家に帰れない、それだけが少し辛いだけで。
同時に、南野秀一の生命を削り、弱らせ、いずれは死に追い込むであろう、この姿が……少しだけ疎ましいのだ。
何故、削らねばならないのか。
何故、削っている自分に、気付いてしまったのか。
何故、妖狐が、南野秀一の……どちらも自分なはずなのに、同じ自分の血で、濡れなければならないのか。
何故、南野秀一によって、妖狐が堕天使に陥れられなければならないのか。
何故……南野秀一としても、妖狐蔵馬としても、生きてはいられないのだろうか……。