<眼差しの温度> 2

 

 

 

「……うっ」

気が付いた時、飛影は人間界にいた。

あのまま風にあおられ、人間界の空から真っ逆さまに落ちたらしい。
幸い、高い樹の真上へ落ちたため、途中で引っかかり、怪我などはなかったが(これで怪我がないというのも、すごいが…)。

 

「ここは……」

辺りを見回してみると、そこは見覚えのある景色が広がっていた。
霊界から秘宝を盗み出した際、逃げ込んだ人間界……丁度、奇妙な霊界探偵と出会った、あの森である。

周囲を見渡すと、同じように爆風であおられたらしい鉄格子の破片や壁の一部、廊下の残骸などがあちこちに落ちていた。
しかし、不思議なことに看守や警官の姿は見えない。
同じように落ちることは防げたとしても(何せ自分の持ち場である)、飛影がいなくなっていることに気付けば、すぐに追いかけて来そうなものだが……。

 

 

わけも分からぬまま、とりあえず地面に降り立つ飛影。
と、地面に片手をついた時気付いた。
手枷はまだしっかりとついている。

「……」

これでは妖力が使えない。
ついでに発信器もついているものをぶらさげたまま逃げても、結局はまた追っ手がかかるだろう。
外そうと思っても、格闘センスこそあれ、あまり手先が器用でない飛影。
試しに弄ってみようかとも思ったが、もし起爆装置でもついていれば、腕ごと全てが吹っ飛ぶ可能性もある。
まだやるべきことがある以上、死ぬわけにはいかない……。

 

 

 

どうしようかと、木に寄りかかったまま、考えていたが……

 

「なっ…!!」

突如、強力な妖気が自分のすぐ近くで渦巻いた。
今まで何も感じなかったはずなのに……。

 

強大な妖力、そしてそれと同等の殺気。
しかし自分に対して向けられているものではないことには、すぐに気付いた。
かといって、妖力が二つあるような雰囲気でもない。
ようするに、一人の妖怪が、一人で勝手に妖気を放出している……早い話が、一人で勝手に激怒しているのである。

いくら街から外れた森の中とはいえ、知能の高い妖怪のすることとは思えない。
こんな妖気、霊界に感づかれれば、即特別防衛隊が出動して、あっさり御用になることくらい、バカでなければ、すぐに見当がつくはず……。

 

一体、どんなバカなのかと、とりあえずそちらへ行ってみることにした飛影。
自分の妖気は、今皆無。
だが、ここから離れていくのは、何となく逃げるような感じで、やりたくない。

勝てる勝てないはともかく、とりあえず彼は行くことにしたのだが……。

 

そこにいた妖怪の正体には、いささか驚きを隠せなかった。

 

 

「なっ…貴様っ!!」

叫んだ飛影の声に、彼は気づき、振り返った。
鬼のような…いや、本当に鬼なのだが、誰よりも鬼らしい目つきと顔つき。
しかし、彼のそれは、今まで以上に、より鬼らしかった。

 

「剛鬼!」
「なんだ、飛影か。てめえも脱走しやがったのかよ」

特に驚いた様子も見せず、当たり前のように言ったのは、かつて仲間であり、あまり期待していなかった方の妖怪……吸魂鬼の前科者、剛鬼であった。

彼が特別驚かなかったのも無理はない。
剛鬼にとって、脱走とは前々から考えていた行為。
それを自分以外の者がたくらんでいても、少しも不思議はなかったのだから。

 

だが、飛影の方は驚かざるを得まい。
確かにそこにいたのは、間違いなく剛鬼ではあった。
その顔は彼以外には考えられない。

しかしその妖気…いや、その身体は……。

 

 

「何だその身体は…」

飛影の頬に汗が伝う。
それほどまでに、剛鬼の身体は今までとは違うものになっていたのだ。

以前も鋼並みの堅さを誇っていたが、とりあえず形は人間のものだった。
しかし、今の身体はゴツゴツとした岩のようで…まるで巨岩に顔がついているような雰囲気であった。
もちろん手足はあるが、そこも岩のようなので、どこが境界線かもはっきりしない。
そのせいで、手枷も(おそらくは外れ壊れたのだろう)していなかった。

岸壁を思わせる身体……あの霊界探偵に負わされた傷は、跡形もなく消えていた。
そして全体から発せられる強大な妖気……。

 

だが、それは決していいものとは感ぜられない。
何か、嫌な臭いのするような……。

その原因は剛鬼の頭部を見て、明らかになった。

 

 

「貴様…それは!?」
「あ〜? これか? くくっ、脱獄の時、秘蔵館に寄ってな。警備は薄かったぜ。何せ、留置所がパニックになってやがったからな。簡単に盗み出せたぜ」
「貴様……それがどんなものか分かっているのか!?」

飛影の声には、明らかに焦りの色が伺えた。
それは決して自分の身の危険を感じて発せられたものではない。
いや……何に対してだったのかは、飛影自身にも分からなかったろう。

ただ分かっていたことは、一つ。
その焦りの原因が、剛鬼の頭につけられた鈍色の冠であったことだけ…。

 

 

「それは『諸刃の輪』だろう!? つけた者に強大な妖力を与える反面、常に妖力を与え続けねば、肉体ごと喰らい、やがては消滅させる、呪いの宝具だぞ!」
「ああ、そのくらい知ってらあ」

飛影の言葉に驚きも感心も示さず、ただ一般常識を聞いただけといったような剛鬼。
その顔に飛影はある種の嫌悪感を感じていた。

 

分かっていてなお、その行為をする……あの狐も同じだった。

しかし、事情も理由も全く違う。
彼は病気の母のため……自らの命よりも大切な誰かのために、行ったのだ。
それ全てが納得のいくものではない。

当然だろう。
飛影には母親がいないから、そういう事態が自分に訪れることは永遠になく、直面したら自分もする…という感情が浮かばないためである。

 

だが、この鬼は違う。
彼がこんなことをした理由……それは一つしかない。

むろん誰かのため、などではないだろう。
ある意味、誰かのため…だったかもしれないが。

 

そして飛影が想像していた答えは、正にその通りだったのだ。

 

 

 

「あいつさえ…あのガキさえ殺せるなら、どんな手でも使ってやる!!」
「貴様…」
「俺の頭に一発ぶちこみやがった、あのガキさえ殺れれば、後は何とでもしてやる!! 妖怪を殺し続ければ、俺に影響は出ねえからな!! てめえの妖力も奪い取ってやるぜ!!」

「ぐあっ!!」

剛鬼の右腕(の辺りと思われる部分)が、飛影の腹に直撃した。
背後にあった木に叩き付けられ、そのまま木をへし折りながら、後方へ倒れた。
が、完全に背が地面に着く前に、剛鬼に頭を掴まれ、手近の岩に殴りつけられる。

 

「ぐっ……」

いくら飛影でも、霊界探偵との戦いでの傷がいえていない上、不意打ちを食らわされたのだから、たまったものではない。
しかも妖力は未だに封じられたままなのだ。
対して剛鬼は諸刃の輪によって、傷が完全に治り、その上今までにない妖力を身につけているのである。

完全に飛影の方が不利……しかし、そんな彼に対しても、剛鬼は容赦なかった。

 

岩にめり込んだ飛影を無理矢理引っ張り出すと、空いた手を頭の冠へ持って行った。
剛鬼が触れると、額の辺りにある宝石がギラッと光り輝いたのだ。
それも全く美しくなく、まるで悪魔の瞳のように、嫌な輝き方だった……。

 

「てめえの妖力でも、タシにはなるだろうさ」
「ぐ、あ…」

光る宝石が、段々霞んで見えてくる。
決して霧が出ているわけではない。
自分の視界が朦朧としているのだ。

いくら深手を負わされていても、それくらい分かる。
宝石に妖力が吸い取られていることくらい……。
封じられていても、自分で使えなくても、諸刃の輪には吸収できるらしい……何とも都合の悪い…。

「頭でっかちの奸ギツネも深手を負ってたはずだからな。これで2匹分は確定だ……死にさらせ!!」

 

 

 

 

 

 

「やめろ、剛鬼…」

飛影の意識が飛びかけた直前。
剛鬼以外の声が聞こえてきた。

うっすらと瞳をあけると……そこにいたのは。

 

 

「く、蔵馬…?」

あまりよく動かない口で、何とか名前だけ呼んだ。
幻覚かとも思ったが、そうではないらしい。
確かに、彼はそこにいた。

自分を二度も裏切った、あの狐は……。

 

むろん、剛鬼とて彼の存在には、すぐ気付いた。
両手足をぶらんっとさせた飛影を持ったまま、振り返り、蔵馬を睨み付ける。
しかし、その凶悪な表情を見ても、飛影の様子を見ても、蔵馬は顔色一つ変えず、

「霊界から逃亡しただけでなく、看守を殺し、また盗みを働くなんて……」

ため息混じりに言うと、一歩二人に近づいた。
のんびり言っているように聞こえるが、剛鬼の間合いには入らないようにしている。
彼もまた、深手を負った身なのだ。
以前の剛鬼ならば、警戒など必要なかったろうが、今は違うのだと、しっかり理解しているのだろう。

 

「お前より長い間、盗賊をやっている俺が言えた立場でもないけどね。やり方が無茶だ。すぐに霊界の追っ手がかかる」
「ふん!! ハンターなんざ、殺してくれるわ!! これさえあれば、俺は無敵だ!!」
「そう…いちおう一度は仕事をしたよしみで忠告しにきたけど、無駄だったかな」
「忠告だー? こっちこそしてやるぜ! さっさとここから、逃げねえと危ねえぜ? 最ももう遅いがな!! こいつが終わったら、てめえの妖力も吸い取ってやる!! うおおお!!!」

剛鬼の咆哮に同調するように、額の宝石が一掃の輝きを増した。
同時に飛影の身体がびくんっと痙攣する。
残された僅かな妖力まで、絞りだそうというのだろう。

 

 

それを見ても、蔵馬は特に焦った様子も見せなかった。
ただ髪の中に手を入れ、武器を取り出す素振りを見せはしたが、それも間合いの外でのこと……剛鬼にとっての間合いという意味もあるが、蔵馬にとってもまだ間合いには入っていないはずである。

鞭であるが故に、間合いは広いが、現在彼らの間には十数メートルの空間がある。
とても一発では届かないだろう。
間合いを詰めてこれば、妖力の勝っている剛鬼の方が有利。

 

飛影を殺した後は、すぐさま間合いを詰めればいい。

今から逃げても遅い。
蔵馬は頭こそ切れるが、スピードは飛影よりも下。
深手を負っている今ならば、余裕で追いつける……。