<EVE> 1
「蔵馬ー!」
勉強机に向かっていた蔵馬に対して、窓の外から声がかかったのは、十二月二十四日…つまり、クリスマスイブの晩のことだった。
幸い、両親は二人でイブの夜を過ごしに出かけ、弟の秀一も友達とぱーっと騒ぐとかで、留守にしており、この異様な事態に気付く者はいなかった。
とはいえ、いきなり声をかけられたのだから、いくら蔵馬とて驚かないはずがない。
土足で不法侵入してくる者ならば、全く動じないが、彼はこんな風に叫びながら登場しないし、ましてこんなにあっけらかんとした暢気な声は出さないだろう。
立ち上がり、カーテンを開けると、案の定そこにいたのは、着物姿の霊界案内人が笑顔でいた。
こんなノー天気な声は、彼女以外に考えられない。
「ぼたん……」
「ひっさしぶり! 元気だった?」
「まあね。ぼたんも元気そうで……それより、どうしたんだ、急に。それも、こんな夜中に」
「あのね! 桑ちゃんの家で、クリスマスパーティやるんだ! 今から! 蔵馬も来ないかい?」
「そんな突然言われても……悪いけど、今から行くところがあるんだ」
普通、そういうパーティなどは、前々から計画を立てて、前々から連絡を入れておくものではないだろうか?
そう思いつつ、蔵馬はそこまで深くは突っ込まなかった。
大体予想はつく。
計画など一切建てておらず、ほんの数分前に思い立ったのだろう。
蔵馬がやんわりと断ると、ぼたんは少し残念そうに、
「そっか…残念。何時までかかるんだい?」
「分からないな。明日の朝までには帰る予定だけど」
「分かった! じゃあ、時間あったら来てね! 二十五日の晩まで、オールナイトで突っ走る予定だから!」
「ああ…」
オールナイトどころではないような気もするが……。
しかし、ぼたんたちならやりかねない。
誰が来るとも聞いていないが、大体のメンツは予想がつく。
幽助、桑原、螢子、静流、雪菜、コエンマ……まあ、これくらいは最低でも来ているだろう。
飛影はどうなのか分からないが。
今までの経験からして、こういうイベントで飛影を呼びに行く役目は自分だったのだし……だから、もしかしたら今回はパスなのかもしれない。
時間があれば、飛影も誘って行ってみようかとも思った蔵馬だが……。
「時間…あればいいがな…」
深くため息をつきながら、タンスを開け、コートを引っ張り出す蔵馬。
今日は割合冷えるが、これ一枚で充分だろう。
首にはマフラーを巻き、戸締まりをしてから、家を出た。
雪がちらつく道を一歩一歩歩いていく。
行く先は決まっていた。
何か他に特別なことがない限り、妖狐の時は毎年行っていた場所。
人間になってからは、なかなか行くことも出来なかったので、今回は本当に久しぶりの場所だった。
「クリスマス…か」
ふと立ち止まり、空を見上げながら呟く蔵馬。
暗い空から、止めどなく降り続ける雪が蔵馬の白い頬に落ち、やがて露となって流れた。
それを手でそっと触れながら思うことは、一つだけ。
あの日のあの時と同じだと……。
……元々、クリスマスというのは、イエス・キリストの降誕を祝うもの。
ただ、キリスト教があまり普及していない日本では、ただのお祭り騒ぎと化しているが、それはそれで悪くないと蔵馬は思っている。
一年中離れて暮らしている親子が再会する機会でもあり、恋人に告白するチャンスでもあるのだから。
いや、それどころか……今も、イエス・キリストを信じて崇めている人々を、蔵馬はかなり複雑に思うのだ。
それもそのはず、蔵馬は数千年の時を生きてきた妖狐。
そう……彼はイエス・キリストが生まれた時、既にこの世に生を受けていたのだ。
しかもあろうことか、キリストと直接出会ったことがあり、また彼の正体が何なのかも知っているのだ……。
今から二〇〇〇年以上前のこと。
蔵馬は盗賊を初めて間もない少年だった。
間もないといっても、彼の感覚なのだから、既に数百年は経過していたが。
この世のものとは思える美しい銀髪の妖狐、それだけで噂はあっという間に広がったものだ。
そして勝負を仕掛けてくるものも少なくなかった。
……彼もその一人だった。
あの雪の日……。
自分と同い年くらいであろう、若い盗賊。
外見は魔族とほぼ変わらない(つまり人間みたいな姿)だったが、縦筋の入った鋭い金色の瞳、光る鱗の服装から、彼が蛇の妖怪であることは、瞬時に見抜けた。
それなりに自分の力に自信があったのだろう、意気込みも激しく、蔵馬に向かってきた。
が、力の差は歴然で、一時間も戦わないうちに終わりを告げた。
蔵馬はかすり傷程度だったが、蛇の彼は瀕死の重傷……。
もう肉体は使い物にならず、このままでは魂の消滅も時間の問題だった。
そこで彼は霊体の状態で人間界へ逃げたのだ。
もちろん蔵馬は後を追った。
トドメを刺すために……。
だが、いくら深手を負っていたとしても、生身の身体よりは霊体の方が遥かに速い。
蔵馬が人間界へたどり着いた時、彼は既に逃げおおせていたのだ。
人間の女の腹の中に……。
そう…この約二〇〇〇年後、蔵馬が行うことになる乗り移るという行為、それを彼は蔵馬の目の前でやったのだ。
最も、彼の場合、受精体に憑依したわけではなく、女の身体に乗り移っただけだったが、蛇と狐の違いだろうか?
彼は無精卵でも充分だったらしく、そこで息づくことが出来たのだ。
「バカか、あいつは。人間なんぞになるとは、恥知らずだな」
自分がやることになるとも知らず、あざ笑ったのを蔵馬は克明に覚えている。
今となっては悪いことしたなと思うこともあるが、多分あの声は蛇には届いていなかったと思う。
それほどまでに、彼は弱り切っていたのだから……。
その場で女ごと葬りさってもよかったのだが、何故か蔵馬はそんな気になれなかった。
別段、無関係の女を巻き込みたくなかったとかではないし、まして殺す気がなくなったわけでもない。
ただ、何となく彼の人間として歩むであろうと今後を見てみたかっただけかもしれない。
ともかく、蔵馬はそれからしばらく、人間となる妖怪の行く末を傍観することにしたのだ……。
そして、十月十日後にあたる、十二月二十五日。
女は出産した。
それも長き旅路の中途、何と馬小屋で。
真冬でもとりわけ冷える雪の夜……母子ともに、かなり酷な出産であったろうが、とりあえずは五体満足。
ひ弱でもなく、何とか普通の男児として生まれることが出来たのだった。
しかし、ここにきて、マズイことが発覚したのだ。
といっても蔵馬はとっくに気づいていたが……。
実はこの女、現在夫がいるのだが、彼と出会ったのは、蛇の妖怪を身ごもった後。
つまりは彼の前に男がいたという形になり、しかもそれを黙っていたということになるのだが。
だが、しかし……この夫婦は余ほど変わっていたのだろうか?
女は聖霊によって身ごもったと言い、男もそれをあっさりと信じたのである。
まあ、女は口から出任せを言っているわけではなかったのを、感じ取っていたからかも知れないが……。
そう、女は本当に聖霊によって身ごもったと思いこんでいるのだ。
十月十日前のあの日、彼を身ごもった時。
聖霊が現れ、救世主を与えたのだと……。
今にして思えば、聖書に出てくる聖霊とは自分のことのように思える。
彼女が身ごもった時、確かに自分は側にいた。
人間からしてみれば、全身で月の光を反射していた自分の銀髪は、確かに天使に見えたかも知れない。
まあこれは、勝手な憶測だが……。
その後、人間となった彼は、聖霊により神から送られた子だということで、随分と持てはやされていた。
それも無理ないだろう。
同じように、人間に憑依した身でありながら、二〇〇〇年後の蔵馬と彼とは決定的に違う点があったのだ。
蔵馬は自分の正体がバレないようにと、妖力はおさえ、ある程度の物事が理解できる年になるまで、ひたすら子供らしさを演じていた。
もちろん普通の子供に比べれば、聞き分けはよすぎただろうし、物わかりもよすぎ、反抗期もない変わった子供だったろうが。
それでも「出来た子」として、片づけられる範囲だった。
が、彼は違っていた。
彼は自分の本来持っている力…つまり妖力を最大限に発揮したのだ。
もちろん妖怪だった頃のようにはいかないが、人間にはどうしても出来ないことを、彼は当たり前のようにこなして見せた。
元盗賊の割りに、彼はかなり恩義を感じる性格らしい。
自分を産んだ仮の母や仮の父が、楽に暮らせるようにと、色んなことをやってみせた。
数十日の断食も、水をワインにすることも、奇病を治すことも……妖怪である彼にとっては、何てことのないものばかり。
人間にとっては、神の業としか思えなかったろうが、妖怪である蔵馬にしてみれば、当たり前のことすぎて、不可解でしなかった。
しかし、それが周囲には神からの使いの力に見えたのだろう。
彼にとっては、育ての親に対するせめてもの恩返しのつもりだったのだろうが。
……それからの彼が神に出会っただの、聖霊のお告げを聞いていただのというのは、全て妖怪との接触や会話だったのだろう。
倒した者は悪魔と思われ、割合友好的だった連中は天使にでも見えたのであろう。
宣教も元々は、彼が仮の両親に心配かけず、負担をかけまいとしたことである。
また時折、仮の両親を他人のように呼んでしまったのは、本当は他人で、騙していることに対する申し訳なさのため…。
自分の種族である蛇を邪悪としてきたのは、両親を騙している自分を邪悪と感じたためだろう……。