<忘れもの> 1

 

 

「雪…か……」

 

そう呟いてから、飛影は大きく息を吐いた。
口から流れるように出てくる空気は、冷たくて白い。
しかし、この…限りなく広い空から、降り続けてくる雪の結晶には敵わないだろう。
白く冷たいだけでなく……そう、飛影にとって、雪は特別な存在なのだ。

自分を捨てた氷河の国の象徴、憎むべき存在であるはずの雪。
なのに、嫌いになれないのは、何故だろう……。

 

「……」

 

手の平にちらちらと降る雪を受け止める。
あっという間に、雪は水の雫へと変化した。
冷たい感覚が手の平を覆い、全身に行き渡る。

その感触が何とも言えず、心地よい……。
どこか……母の形見の氷泪石に似ていて。

 

 

そんなことを考えながら、飛影は懐へ手を突っ込んだ。
取り出したのは、二つの氷泪石。
一つは躯がよこした自分のもの、もう一つは妹・雪菜のものだ。

いつか彼女の石は彼女に返さなければ……そう思い続けて、もう随分になる。
人間界へ行く機会は、たびたびあるし(主に痴話ゲンカによる傷の手当てを蔵馬にしてもらうため…本当はイヤだが、回を重ねる事にエスカレートし、最近では半殺しでもいいくらいになっているのだから…)、雪菜にもごく稀だが会っている。

 

だが、いつになっても渡せない。
何と言って渡せばいいのか分からないのだ……。
やはりあの時、蔵馬に無理矢理にでも、押しつけておけばよかった……今更後悔しても遅いが。

 

 

ポツッ…

 

二つの氷泪石に同時に雪が落ちた。
氷泪石は氷女の涙から生じる石。
手の平に落ちた時のようには、簡単に溶けはしない。
ゆっくりゆっくりと溶けていく雪を見つめていると、ふと脳裏に古い記憶が浮かび上がってきたのは……。

 

やはり雪の記憶。

飛影が初めて人間界に来た日のことだった……。

 

 

 

 

随分前……もう八年ほどは前になる。

まだ雪菜という妹がいることを知らなかった頃。
氷泪石をなくしたばかりの時だった。

 

魔界整体師・時雨の名を知る少し前で…。
ヤケになって、がむしゃらに氷泪石を探していた時のこと。

ふいをつかれ……何か妖怪に背後をとられた。
しかし、五歳の時からA級妖怪である飛影。
当然のことながら勝ちはしたが、突然だったせいか、ある呪いをかけられてしまったのだ。
それは次の満月がくるまで解けないもので……妖力をほぼ皆無にしてしまうものだった。

 

自分の未熟さを恨んだが、しかしどうしようもない。
戦いに関しては、エキスパートの飛影も、解呪の仕方などは一切知らないのだ。

腹は立つが、相手を殺してしまっては、もうどうしようもない。
満月までは大人しくしている他ないかと、頭を冷やす意味でも、また強力な妖怪に出くわさないためにも、魔界の上層部を目指して行った。

 

なるべくなら、雪の降っている地方がよかったのだが、生憎霊界の監視下に置かれている魔界の上層部はほとんどが温帯のような気候。
彼の期待に添えるような地域は全くなかった。

少しがっかりしながらも、諦めて何処かで昼寝でもするかと、適当な木を探していた、その時だった。

 

 

「なっ!?」

 

突如、頭上が黒くなり、飛影に大きな影が落ちた。
敵かと思ったが、そんな感じではない。
振り返ると、そこにあったのは……。

 

「境界トンネルか!?」

そう、魔界の境界トンネル。
魔界とその上にある人間界を繋ぐもので、ごく稀に自然に開いてしまうものがあるという。
常に魔界の下の方にいた飛影は、滅多に上には来ないため、存在は知っていても見るのはこれが初めてだった。

しかも今まで一度もなったことのない…妖力皆無の状態では、対処のしようもない。

 

「くっ…」

何とか堪えようとするが、魔界の穴はまるでブラックホールのように周囲の木々を吸い込んでいく。
紛れて何匹かの妖怪が引きずり込まれ、また別の妖怪は自分から飛び込んでいった。

 

しかし、飛影には人間界へ行く気などない。

氷泪石をなくしたのは、魔界。
母親のいる氷河の国があるのも、魔界。
ここで巻き込まれては、いつ魔界へ戻ってこられるかも分からないのだ!!

 

だが……。

飛影の思いも虚しく、魔界の穴は辺り一帯の地面ごと、彼の身体を宙に持ち上げ、そしてその大きく開いた口の中へと吸い込んだのだった……。

 

 

 

 

「……じょうぶ? …大丈夫?」

ふいに誰かの声が、飛影の耳をついた。
うっすらを瞳を開ける。
覚えていないが、いつの間にか気絶していたらしい。

まだ視界ははっきりしない。
声もかなり遠くで聞こえてくるようだった。

 

ふらつく頭を起こし、続いて上半身を起こすと、軽く額を叩いて、意識をはっきりさせた。
そして瞳を大きく開けると……。

目の前が真っ白だった。

一面の白い雪。
他には何の色もない、銀世界だった。
まるで氷河の国……一瞬、そこへ来てしまったのかと思った飛影だったが、しかしすぐに分かった。

ここは人間界。
人間界にも雪山はあると聞いている。
おそらくその一つに落とされたのだろう。

 

 

「……大丈夫? 君?」

はっと声の存在を思いだし、その方向へ頭を向けると……いたのは、一人の子供だった。

まだ幼い……飛影よりも一〜二歳くらい年下だろう。
座っているからはっきりとは言えないが、おそらくは飛影の方が若干は高いと思われる。

 

手編みらしい毛糸の赤い帽子。
少しサイズが大きいのか、それともわざとこういうデザインにしてあるのか、額は完全に覆われており、眉毛と瞳の境辺りに裾がきていた。
サイドは更に耳垂れを作るようにして長いため、耳まですっぽりと覆ってしまっている。

飛影はそんなものと知るよしもないが、赤を主体に黄色のラインが入ったスキーウェアを着ている。
これは手作りではないだろうが、赤い帽子とよく似合っており、選んだ者はセンスがいいと言えるだろう。

額には銀フレームのゴーグル。
こめかみの両脇あたりから、細い三つ編みになった黒い髪の毛がのぞいていた。
雪の混じった風が吹くたび、白い頬にふれている。
邪魔なのか、飛影の顔を見つめながらも、何度かそれを押しのける仕草は、幼い者のみに許される可愛さがあった(むろん、飛影はそんなこと全く思っていないが)。

 

 

 

普通に見れば、親とスキーに来たが、迷子になって一人でうろついていた……と思われるだろうが、飛影は違った。
それも当然。
彼は一瞬で見抜いたのだ。

この子供が妖怪だと……。

だが、妖力は低いらしい。
E級の半ばといったところか……妖力の使えない飛影よりは、当然上になるが、しかしいくら妖力がなくても、飛影には磨いてきた体術がある。
戦っても勝てる自信はあった。

 

しかし、問題はそこではない。
何故こんなところに妖怪の子供がいるのかという点である。
親が面倒を見ない妖怪は、魔界では別に珍しくはない。
だが……。

 

「(何でこんなところにガキが……人間の恰好ということは、半妖怪か…だが、それなら何故親がいない。人間界にも戸籍を持っている以上、むやみに放置も不可能のはず……)」

「ね、大丈夫?」

子供は黙ったままでいる飛影の顔を覗き込み、再び問いかけた。
はっとし、思わず答えてしまう飛影。

 

「あ、ああ…」
「そう! よかった! ところで、ここで何してるの?」
「……別に何でもない」

ふいっと視線をそらす飛影。
そのまま立ち上がって、すぐに去ろうとしたのだが……。

 

 

ぐぎっ

 

「つっ…!」

二〜三歩歩いただけで、その場にうずくまってしまった。
よくよく見てみると、右足が奇妙な方向へ曲がっている。

「ちっ…折っていたのか…」
「うわっ! 骨折してるじゃない! 酷いよ、これ。完全にまっぷたつに折れてるよ!」
「こ、このくらい何でもない! それより貴様…」
「貸して!!」

飛影の言葉には耳も貸さず、子供は飛影の右足にしがみついた。
瞬間、強烈な痛みが飛影の全身を駆け抜ける。

 

「い゛っっ!!」
「大人しくして! すぐ終わるから!」

別に飛影は暴れてもいないが……むしろ、つかみかかっていったからこその結果のような気も……。
しかし、その後の動きは迅速かつ適切だった。
近くに落ちていた…おそらくは自分のものなのだろう、スキーのスキー板を取ってくると添え木にし、ストックのバンドを外して固定し、念のためにもう一重、ポケットから取り出したハンカチを巻いて固定した。

 

「これで多分大丈夫だよ」
「……」

微笑む子供と自分の足を交互に見る飛影。
確かに最初につかまれた時は痛かったが、今はかなり痛みがひいていた。
立ち上がってみたが、ゆっくり歩く分には問題なさそうである。

 

 

 

「ねえ、さっきの話に戻るけど。君ここで何してるの? ここ危ないよ。妖怪が出るから」
「……貴様も妖怪だろうが」
「あ、やっぱり分かる? うん、そうだけど。でもね、もっと危険な妖怪が出るから」
「危険?」
「うん。綺麗な石ばかり集めている妖怪がね。だから……」

 

「石!?」

その言葉に飛影は思わず反応してしまった。
氷泪石をなくして以来、石という言葉が聞こえるだけで、つい反応してしまうようになっているのだ。
一方、子供はきょとんっとした顔で、不思議そうに頷いた。

「うん。綺麗な石を集めてる妖怪でね。この辺ではつらら女って呼ばれてるんだって。だから、ここからは早く離れた方が……」
「そいつ、何処にいる!」

子供の声を遮って怒鳴る飛影。
襟首を持ち上げ、ギラギラとした目で問いつめた。
自分の目つきの悪い顔を近づけられたにも関わらず、全く怖がる素振りを見せない子供にも、正直少し驚いていたが……。
しかし、今はそれどころではない!

 

「何処にいるんだ、そいつは!」
「……戦うの? ちょっと無理じゃ…」
「いいから、知っているなら教えろ!!」
「……」

子供は再び顔にかかった三つ編みを左手ではらうと、そのまま指をすっと立て、指さした。

「あの峠の途中にある洞窟だよ……」
「そうか……」

ぱっと子供の襟から手を離す飛影。
向かうのは、もちろん峠の洞窟……。

 

 

 

 

と、ふと振り返ってみると、子供がついてきていることに気付いた。

「……なんだ」
「うん、実はね。用があるのは、君だけじゃないの」
「……貴様もか」
「大事な石を取られてね。取り返しに……一緒に行こう?」
「…フン、勝手にしろ」

そう言うと、きびすを返して歩く飛影。
普段の彼なら、こんなチビがついてきていて、怒らないわけがない。
というより、追い返すに決まっている。

 

なのに……この子供に対しては、そんな気になれなかった。
何故かは自分でも分からない。

目的が同じだから?
いや、そうであれば、好印象を持ったのは、たった今のはず。

 

だが、飛影は初めてその大きな瞳を見た時から……その瞳に惹かれていた。

 

「(分からん……だが…イヤではないな……)」