<涙の行き着く先> 1
今から数百年前。
魔界で、まだ三竦みの形成が成り立っていなかった頃。
厚い雲に覆われた流浪の城・氷河の国から、一人の盗賊妖怪が植物のツバサを広げて、飛び立った。
銀色の長い髪と、冷酷な金色の瞳。
純白の魔装束は少しだけ血に染まっていた。
魔界中に名を轟かす伝説の極悪盗賊・妖狐蔵馬。
狙いは氷女ではなく、彼女たちの流す涙より生まれる氷泪石。
いちおうは希少価値のものだし、滅多に発見出来ないといわれる氷河の国から盗み出すのも面白いかと、向かったのだが……。
「ちっ、時間の無駄だったか…」
久しぶりにつまらない仕事をした。
何処が見つけにくいというのか……冷たい妖気の匂いをたどって空を飛んでいれば、すぐに見つかってしまった。
氷泪石自体も、氷女たちは自分の姿を見ただけで震え上がって泣いてしまい、あっさりと手に入る。
最もそれは蔵馬でなければ出来ない方法だっただろうが…。
そんな形で手に入れても、つまらない。
売れるところで売れば、それ相当の値段になるかもしれないが、古代の宝などを狙いにしてきた蔵馬にとっては、はした金である。
結局一つだけで、他は全て置いてきた。
というより、取りもしなかった。
たった一つだけ…その一つだけは少し特別だったから……。
気分悪く空を飛んでいたが、やがて地面へ降り立った。
切り立った崖の上、しばらくここで休憩することにし、そこへ腰を落ち着かせた。
ポケットから奪ったばかりの氷泪石を取り出し、手の平に転がせてみる。
光る石に魔界の空が反転されて映し出された。
暗い雲に閉ざされた空。
光といえば時折走る稲妻のみ。
太陽の光とは無縁の世界…。
だが、自分はそれ以上に光の当たらない世界で生きる盗賊である。
最初は何のつもりで盗賊をやり始めたのだったろうか。
名をあげるため、国をたてるためだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
もう随分昔のことで、覚えていない。
黄泉やその仲間と組んだ時には、確かそういう理由でやったはずであるが。
黒鵺と組んだ時は…よく覚えていない。
盗賊を相手にしている酒場で意気投合して、以降彼が死ぬまで組んでいただけ。
特に理由はなかった。
ただお互いが盗賊であり、やることといえば盗賊しかなかっただけ……それでもあの時は楽しかったが。
だが、これ以上魔界で盗賊を続けることに何の意味があるだろうか。
黒鵺はもうこの世界にはいないし、しとめ損ねた黄泉がいつ寝首をかきに来るかも分からない。
こちらからトドメを刺しに行ってもいいが、探すのも面倒だし…。
いや、それ以上に今魔界は二つの派閥がぶつかり合っている世界なのだ。
一つは雷禅、もう一つは躯。
どちらも会ったことはないが、しかし自分より多分強いのだろう。
どれくらいの差があるのかは分からないが……。
しかし、この二つの派閥がある以上、この世界で国家的な力を入れるのは難しい。
100%無理ということはないが、それでも時間はかかるだろう。
となれば、別の世界に行くべきか……。
ここから一番近い人間界。
霊界の監視下ではあるが、だが前に何気なく行った時、あの世界は面白かった。
人間というのは妖怪とはまた違っていて……馬鹿な生き物だとは思ったが、興味を持った。
試しにまた行ってみるか……。
そんなことをぼんやりと考えていた蔵馬。
その時、背後に殺気を感じた。
つい先程まで、誰もいなかったはず……匂いもしなかったし、気配もしなかった。
気がつかなかったのではない。
その人物があまりに唐突に、しかも一瞬で現れたような想像を絶するスピードの持ち主だったのだ。
蔵馬が立ち上がって振り返ったのと、敵がその右手を振るったのは、ほとんど同じだった。
ザジュッ!!
蔵馬の腹に敵の手がめり込んだ。
斬られたような、突かれたような、殴られたような、えぐられたような……その全てのような。
痛みすら感じる余裕はなかった。
何が起こったのかよく分からないうちに、蔵馬は意識を失った……。
「……?」
蔵馬が目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。
まだ視界ははっきりしない。
瞳をこすろうとしたが、腕が動かなかった。
表現出来ないような攻撃を受けたような気がするから、そのせいかとも思ったが……違った。
頭を動かすことは出来たので、振って意識をはっきりさせると、今自分が置かれている状況が分かった。
両の手は後ろへ持って行かれて縛られ、岩にくくりつけられている。
足も岩にはくくられていなかったが、動かないように鎖が絡められていた。
髪や尾には、ご丁寧に呪符が巻かれている。
これでは動くどころか、妖気を使うことすら出来ない。
ふいに腹を見てみると、グチャグチャにえぐられていたが、何とか内臓は突出しておらずにいた。
まあ中でズタズタになっているだろうが…。
出血もある程度は止まっていたが、いざ傷を見た途端に、身体が思いだしたように激痛を走らせた。
「……っつ!」
「何だ、もう起きたのか」
蔵馬の痛みをこらえた小さな声に、誰かが反応した。
肺や気管も損傷しているのだろう、息もしにくい。
しかし何とか顔だけでも声のした方へ向けた。
そこにいたのは、一匹の妖怪。
オレンジがかった茶髪に、切れ長の深い藍色の瞳。
布を体中に巻いた奇妙な格好をしていたが、とりあえず人型の妖怪。
それよりももっと大きな感情があった。
生まれて初めての感覚。
まさか自分がこんな気持ちに駆られるなど、思いも寄らなかった……。
恐怖。
そんなものあり得ないと思っていたのに。
否定したい。
しかし、今自分は間違いなく、恐怖を感じていた。
この妖怪に、すさまじい恐怖を……。
「見た目はヤサ男だが、意外と丈夫だな。妖狐蔵馬」
「俺を…知っているのか……」
恐怖や痛みのせいで、声など出ないかもしれない。
そう思っていたが、何とか出た。
震えていないか心配だったが、とりあえずそれもなかったようだし。
「知らない奴などいるか。極悪非道の盗賊妖怪。銀髪の妖狐なんざ、ゴロゴロしているものでもないだろう」
「……」
「何だ」
蔵馬が黙ったままなので、妖怪が蔵馬の方へやってきた。
蔵馬の足先辺りに座り、真正面から蔵馬を見据える。
その眼力に蔵馬は背筋に悪寒が走った気がした。
「…何か言いたげだな。言えよ」
「……何故、殺さない」
恐怖はある。
背筋が凍り付くような恐怖……。
だが、妖狐としての盗賊としてのプライドまで氷らせるつもりはない。
それを捨てるくらいならば、死んだ方がマシというもの。
一方、妖怪の方は顎に手を当てながら、
「そうだな。俺も不思議に思っているところだ。殺すつもりだったんだがな」
「……どういう理由だ。俺に恨みでもあるのか」
「別にない。たまたま気分が悪かっただけだ。イライラしていたら、近くにお前がいた」
そんな理由だったとは……。
しかし蔵馬とて、苛立っているというだけの理由で殺しをしたことが、ないわけでもない。
だから反論出来る立場ではないし、する気もない。
魔界とはそういう世界。
力のみ。
弱者は強者に支配されるか殺されるか……そして、この妖怪は弱者は殺すという主義なのだろう。
だが、それならば何故さっさと殺さず、瀕死の奴を縛りつけているのか…。
「だったら、さっさと殺せ」
「いつ殺そうが俺の勝手だ。それよりこれは何だ」
すっと妖怪が差し出したもの。
それは先程蔵馬が盗み出し、そして唯一手にしていた氷泪石だった。
攻撃された時に落としたのか、縛られた時に取られたのか…まあそんなことは関係なかったが。
「氷泪石だ。氷女の涙から生まれる宝玉…」
「ああ、氷泪石か。名前は知っていたが、見るのは初めてだ。綺麗なものだな」
「それは一番綺麗だった」
「何?」
蔵馬の言葉に、氷泪石へ視線を落とす妖怪。
確かにこれはとても綺麗だが……しかし、石に違いなどあるのだろうか?
もちろん全くないということはないだろう。
だが、ここまではっきり言い切るとは。
盗賊としての眼力がそう言わせるのか……よく分からなかったが、しかし妖怪は興味を持ったらしい。
「どういう意味だ。どういう意味で綺麗なんだ」
「……」
頭に巻いた布のせいで、片方しか見えない藍色の瞳を輝かせて問いかける妖怪。
その表情は見た目以上に何処か幼く見えた。
それでも蔵馬の中の恐怖は消えなかった。
だが、黙っていても徳も損もないので、
「今も綺麗だが……流した時はもっと綺麗だった」
「涙だったとき…という意味か?」
「ああ…」
言ってから、蔵馬は空を仰いだ。
氷河の国は見えない。
匂いもしない。
風向きからして、こちらへは来ないだろう。
だが、この暗雲の向こう……果てしなく遠い何処かに、確かにその国はあるのだ。
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