<SILVER RAIN> 1
「雨、か……」
○×市の住宅街にある南野家。
その二階に位置する、おおよそ子供部屋とは呼びがたい、あまりにも整理整頓された部屋で、一人の少年が呟いた。
無駄なものなどなく、すっきりとした…いやガランとしていた。
それが高校生だの大学生だのまでくれば、まあ納得はいくが……。
この部屋の主、長男であり一人息子である秀一は、僅か10歳とまだ小学生なのだ。
奇妙なほど子供らしくない彼だが……それもそのはず、彼は子供でないどころか、人間でもないのだ。
窓辺でぼんやりと雨の降りしきる外を眺める彼、南野秀一の正体。
それはかつて、魔界中にその名を轟かせた銀髪の盗賊妖怪、妖狐蔵馬なのだ。
10年と少し前、ハンターに追われ、深手を負い、人間界へ逃亡。
霊体の状態では生き残ることなど出来ず、かといって誰かの肉体を借りる力さえ残っていなかった。
仕方なく、南野志保利という人間にのりうつり、彼女の子供となることで生きながらえ、現在に至っているのだが……。
妖力が回復したら、すぐに出て行くつもりだった。
当然だ、人間ほど世間知らずで不便な生き物もそうそういない。
基本的に霊力にも妖力にも否定的で、物の怪である自分には実に住みにくい世界、そんなところに人間として長居するなど絶えられない。
妖力回復に要する時間はおよそ10年間。
以前のようにとはいかないが、とりあえず妖力は回復した。
もう植物を操る技も使えるし、ある程度の妖怪ならば倒せるまでになった。
つい最近も、妖怪の首をはねて、半死半生の状態で追い返したところである。
なのに……すぐに出て行くつもりだったのに……。
時が経つに連れ、段々そこが居心地よくなっていた。
盗賊妖怪として生き、信じるもののほとんどいない、駆け引きだけの世界……それがここにはなかった。
もちろん人間界にもそういう面はあるだろう。
それは蔵馬自身が見てきたことである。
しかし、ここにはなかったのだ。
あったのは、温かい母の愛情。
彼女は自分の正体を知らないどころか、霊力も弱く、知識的にも知らないに等しい人だった。
それなのに、嫌な感じが少しもしない。
むしろ知らないでいてくれて、嬉しかった。
母親とのこの10年間。
色んなことがあった。
本当の母親を覚えていない蔵馬にとって、ほとんどが初めての体験のようで……。
凍てついた心が、少しずつ溶かされていくような…不思議な感覚。
ずっと触れていたい。
そしていつか…『一番の人』を失った彼女にとって、新しい『一番の人』が出来るまで側で支えたい、そう思うようになっていた。
妖怪のくせに、何を馬鹿なと必死に打ち消そうとしたが……。
一年前のことだった。
「ただいまー」
「おかえり、秀一」
「工作で大きな空きカン使うんだけど、ない?」
「そこの戸だなの上…いいわ、母さんがとる」
「いいよ、自分でとれる」
あまり丈夫でない彼女の手を煩わせたくないと、近くにあった椅子を引き寄せ、戸だなの上を探る蔵馬。
しかし足場はあまりよくなかった。
ガタガタと足下で不安定な音がする。
だが、これくらいならば保てるだろうと、戸だなの奥へと手を伸ばした。
「えーと……」
戸だなの手前にある皿がかなり邪魔だった。
手が触れるたびに、ガチャガチャと揺れて小さくぶつかりあう音がしている。
さっさと缶を取って降りなければ……。
「!」
「あ!!」
ガシャン!
皿が下に落ちた…と同時に、椅子がぐらりと傾いた。
当然、上に乗っていた蔵馬は投げ出される形で後方へ倒れる…!
体勢が悪すぎる、着地位置が定まらない。
割れた皿の上に落ちると瞬時に察したが、とても間に合いそうになかった。
痛々しく紅く染められる自分の頭を受け入れたくはなかったが、それ以外ないか……と思ったとき、
「危ない!!」
ザクッ…
鈍い音が聞こえた。
頭のすぐ後ろで……しかし痛みはなかった。
慌てて起きあがると、目の前に両腕を血に染めた母の姿が……。
「あっ…母さん!!」
「うっ…」
痛みから母がうめいた。
自分を庇ったことに気付いた時、蔵馬は蒼白になったのを覚えている。
頭の中が真っ白になって……何も考えられなかった。
それはほんの僅かな時間だったが……。
はっと我に返った時、蔵馬は謝らねばと思った。
怒っているに違いない。
母の意見を無視して、勝手に安定の悪い椅子に乗り、あまつさえケガを負わせたのだから……。
しかし……蔵馬が謝るよりも前、彼女は顔を上げた。
その顔を見た途端、蔵馬は言葉に詰まって何も言えなくなった。
……笑っていたのだ。
とても怒っているようには見えない。
嘲笑しているわけでも、無理に笑顔を作っているわけでもなかった。
両腕の傷は決して浅くない。
まして人間の彼女には、想像を絶するほど痛いはずなのに……。
なのに笑っている、微笑んでいる。
なぜだか分からなかった。
しかし、彼女の次の言葉で…分かった……。
「だ、大丈夫? ケガしなかったわね…」
……一年経った今でも、母の腕から傷は消えていない。
おそらく一生残ってしまうだろう。
あまりに傷は深すぎた。
しかし、母はそれについて、一度も自分を責めたりはしなかった。
女性として、腕に一生ものの傷が出来るなど、ショックなはずなのに……。
傷について蔵馬が話そうとすると、笑顔で話題をそらしてしまう。
何度も家を出ようとしたが、その笑顔を見るたび振り切れず、ずるずると引き延ばしてきた。
この日もそうだ。
日曜だが、朝から母は仕事で、蔵馬は家に一人でいる。
母が出かけた後すぐに家を出よう、昨日の晩までそう思っていた。
なのに、朝玄関まで見送った時、
「行ってくるわね」
と、言った彼女の笑顔に……引き留められるように、今も家にいる。
行かなければいけない。
これ以上、ここにいてはいけない。
居着くことなど出来ない。
自分には敵が多すぎる。
いつ彼女が危険に巻き込まれるとも限らないのに……。
窓を伝って流れていく雨粒は、時間が経つ事に増えていった。
洗濯や洗い物などほとんどすませたため、やることがなく、ぼんやりと眺めていたが、ふいに窓を開いた。
風向きからか、部屋の中には入り込んでこないが……。
すっと窓の外へ手を出す蔵馬。
小さな白い手に、雨粒が落ちた。
冷たいが、気候が暑いだけに、気持ちよかった。
ぽつりぽつりと絶え間なく雨粒は蔵馬の手に落ち、ついには完全に濡らす形になった。
それでも蔵馬は手を引っ込めようとしない。
濡れている手と、落ちてくる雨粒を、いつまでも眺めていた……。
が、突然手に痛みが走った。
反射的に手を引っ込め、空いた手で強く押さえつけながら、見てみる。
外に出していた手に……僅かだが溶かされた形跡があった。
「酸か!」
妖怪の身体ならば、絶えられただろう。
魔界の食妖植物の酸によく触れていたから…。
だが人間の身体では話が違う。
大した傷ではないが、痛いことに代わりはない。
しかし、今は痛みに構っているヒマはない。
魔界ならば酸の雨が降るなど珍しいことではないが、人間界ではまずあり得ない。
いくら最近酸性雨が問題視されているからといって、ここまで強烈な酸が降るわけがない!
ということは、答えは一つしかない…。
「……そこにいるだろう。出てこい」
ズボンのポケットから、一枚の小さな木の葉を取り出しながら言う蔵馬。
視線は隣の家の屋根に向いている。
普通の者ならば、気がつかなかったろうが……屋根と屋根の隙間、そこからズルズルと何かがはい出してきた。
同じ妖怪でも蔵馬とは大分違う……所謂「化け物」であった。
「ケケッ…コンナトコロデ、妖狐蔵馬ニ出アエルトハナ…」
「……何の用だ」
「簡単ナコトダ。オ前ヲ殺ス。ソシテ、俺ガコノ街の支配者トナルノダ!!」
「……」
ようするに、いつものパターンらしい。
呆れてモノも言えない蔵馬だったが、こういうのはさっさと始末するに限る。
いつもならば半殺しくらいで勘弁してやっても良いが……何となく、今日は機嫌が悪い。
殺すと、この時決めていた。
「やるならとっとと来たらどうだ…」
「言ワレナクテモ、殺ッテヤル!! シャアーー!!」
屋根から跳び上がり、蔵馬目がけて急降下してくる妖怪。
手がカギ爪状になっているようなので、それで攻撃してくるつもりらしいが…。
そんな単純で弱い攻撃が蔵馬に効くわけがない。
屋根に傷をつけられても困るので、避けずに迎え撃った。
妖怪が到達する前に、手にしていた木の葉に妖力を込める蔵馬。
次の瞬間、妖怪はみじん切りもいいところの木っ端微塵に粉砕されていた。
バラバラになったことに本人が気付いたかどうかは分からないが、ともかく妖怪は半分砂状となって庭へと落ちた。
「全く…こういうのが絶えないのも困りものだな…」
部屋を出、ベランダまで来て、庭を見る蔵馬。
片づけた方がいいが、雨も降っているし、掃きようがない。
どうせ見た目には、庭の土と違う色の砂が落ちているだけなのだし、明日にするかと、部屋へ戻ろうとした時……。
何かの視線を感じた。
嫌な予感がしつつも、振り返ってみる蔵馬。
道路と家を仕切るブロック塀……その間から、一人の人間が顔を覗かせていたのだ……。
「……!!」
思わず、きびすを返して、家の奥へと走り込む蔵馬。
しばらくそこで荒く息をしていたが、しかし全く収まる気配はない。
それどころか焦りは更に増していく。
「(見られた! …見られた!!)」
落ち着くことは出来ないが、状況の把握は段々出来てきた。
それが更なる焦りを呼び起こし……ついに、蔵馬は家を飛び出した。
雨の中、傘も差さずに……冷たい雨が打ち付けてくる。
先ほどまで高かった気温も、続く雨のせいで下がってしまっていた。
だが、それにも蔵馬は気付かない。
ただひたすら走り続けるだけであった……。
やはりいられない。
一つの場所にはとどまれない。
ましてそこが人間のところなど……。
行かなければ。
迷わないうちに。
決心が鈍らないうちに!!
一刻も早く!!
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