<SILVER RAIN> 2

 

 

「はあはあ……」

どのくらい走ったろうか……。
ようやく息が上がってきた頃に、蔵馬は足を止めた。
滅茶苦茶に走っていたせいか、気がつけば、見覚えのない人通りの少ない路地にいた。
段ボールやら土管やらが山積みされていたそこで、蔵馬は大きめの土管の中に腰を下ろした。

荒くなった息を落ち着かせるのには、大分時間を要した。
いくら妖力が回復しても、肉体は10歳の人間に変わりないのだから、そう長時間の運動には耐えきれるはずがないのだ。

 

 

土管の中。
ようやく息は落ち着いたが、そこから動こうとせず、一人ぼ〜っとしている蔵馬。

雨は止みそうにない。
気温は更に下がってくる。
とても夏場とは思えないほどに。
まるで蔵馬の心を反映しているかのように……。

走ったためにかいた汗は既に水になり、蔵馬の身体を更に冷やしていた。
いや、それがなくとも、走っている間に遠慮なく叩き付けてきた雨のせいで、蔵馬は完全に冷え切っている。
土管の中へ降り込んでくる雨もが、背中を激しく濡らし続けていた。

 

「…くしゅん!」

小さくくしゃみをしたが、誰の耳にも届いていなかった。
それは今の蔵馬にとって有り難いことだったが…。
同時に全身に寒気が襲った。

医学にも詳しい蔵馬は、瞬時に風邪だと分かった。
あまり酷くはならないだろうが……それでもこの雨の中にいれば、どうなるかは分からないだろう。
しかし、還る気はなかった。

 

いや違う……。

還るところなどない。

元々なかったのだ。

 

自分は盗賊。
還る場所などあるはずがない。
常に孤独に裏切りの影に潜み、相手を出し抜き続け、宝と自らの向上のみを求める。
その自分に安息の地など、あってはいけないのだ。

心地よいと思ってなどいけない。
いつか誰かに利用される。
利用されれば、それが最後……。

助かる自信はある。
そう、自分が助かる自信は。
だが、あの人は……あの人を守りきれる自信はない。

かつて同じ盗賊でありながら、助けられなかったヤツもいた。
その自分が力を持たない人間を守れるはずがない。

離れなければ。
もう二度と会わぬよう……。

 

 

なのに……。

この場所を動けないのは、何故だろう?
そしてちらちらと横目で外をうかがっているのは、何故だろう?

まだ期待しているのだろうか?
あの人の元へ還れることを。
あの人が来てくれるのではないかということを。
そんなことあるはずがないのに……。

 

 

 

 

「……?」

ふと蔵馬の肩に雨粒が当たった。
降り込んでいたのだから、先程からずっと当たってはいたが、今のは少し違う。
粒が大きく、ひときわはっきりと感じ取れた。
まるで誰かに肩をたたかれたような不思議な感覚。
ゆっくりとだったが、蔵馬は振り仰いだ。
自分でも不思議だが、あの人だと期待を持たずに……。

 

そこには一人の人間が立っていた。
もちろん母親ではない。
それは先程、南野家の庭を塀越しに見ていた人間だった。

今の蔵馬よりも若干年下の少年。
しかし、落ち着いてみてみれば、一目で分かった。

この少年は……生きている人間ではない。
つまり幽霊、しかも怨霊悪霊のたぐいではなく、ただの浮遊霊のようだった。
ならば、逃げる必要などなかったかもしれない。
幽霊ならば、誰かに言えるものでもないし、第一人間にとっては、幽霊も妖怪も大差ないだろう。

しかし……出てきたことに、後悔はしない。
どうせこの日が来ることは分かっていたのだから…。

 

 

「……こんなところで何してるんだ?」

少年が説いかけてきた。
しかし蔵馬は答える気になれない。
そんな気分ではなかった。
そっとしておいてほしかった。
早く去って欲しい、そう思って顔を背けた。
だが、少年は去ろうとするどころか、蔵馬が黙ったままなので、

「ねえ、濡れてるよ? 寒くない? 今日は冷えるからさ。早く家に還りなよ。それほど走ってないだろ?」

と、執拗に聞いてきたり、言ってきたりするのだ。
いつもならイライラしまくり、植物でも出すところだが、今日は気分が全く浮上しない。
いい意味でも悪い意味でも…。
なので、少年が何を言っても、黙ったままだった。

しかし……彼の言った一言は、流石に痛かった。

「君がいないと、お母さん一人になるよ。それに…君も一人になるよ」
「……お前には分からない!!」
「うん。分からないよ」

少年は穏やかに言った。
蔵馬は一瞬凍り付いた後、振り返った。
その時彼は自分がどんな顔をしていたのかは分からなかったが…おそらくひきつった顔をしていたはずである。
だが、少年は真剣な顔で、

「君には還るところがあるのに……何で還らないのさ」
「俺は……別に子供じゃないんだ。幽霊なら分かるだろ。俺が人間じゃないって!」
「うん…分かるよ」
「だったら、ほおっておいてくれ! 一人でも平気なんだから!」
「……何を怯えてるんだよ…」

その言葉に蔵馬は驚きを隠せなかった。
そんなことを言われたのは、南野秀一になってからも、妖狐蔵馬になってからも、初めてだったのだ。
自分が何かに怯える……そんなこと、あるはずがない。
だが、彼は嘘をついているようには見えない。
それに全く当てはまっていないならば、ここまで驚くはずもなかった……。

 

「俺が…怯えて…」
「別にボクを怖がってるって言ってるんじゃないよ。ボクは何処も怖くないだろうから。でもさ、怖いんだろ? 一人になるのが……母親と離れるのが」
「……」
「無理に大人になる必要ないよ。君は妖怪では大人かもしれないけど、人間としては子供なんだ」

ふわっと幽霊が蔵馬の横に降りた。
地面にはついていないが、隣に座るように…。
そして触れられない手で蔵馬の肩に手を置いた。

「しばらく……泣いてないだろ」

そう言った少年の声は、先程よりもいささか低く聞こえた。
肩に置かれた手も、随分大きく感じる。
はっとして見てみると……少年はあの少年の姿をしていなかった。

今の蔵馬よりも大きい…おそらく十代半ばほど。
長い髪が似合う、穏やかな表情の青年に変わっていたのだ。
幽霊は死んだ時と同じ姿をしているとは限らない、だからもしかしたら彼はこのくらいの年に死んだのかもしれなかったし、もしかするともっと年を経てから亡くなったのかもしれない。

だが、そんなことを蔵馬は尋ねたりはしなかった。
そして少年…いや、この青年も言わなかった。
ただ優しい笑顔を蔵馬に向けて、

「泣いていいよ。どうせボクは幽霊なんだから……」

 

 

 

……蔵馬は、泣いた。

どれくらい泣いたかは分からない。
どんなに激しく泣いたのかも分からない。

だが、とにかく泣いた。
涙が涸れるまで……。

そして、その合間合間に何度も何度も、

「……還りたい…」

と言った。

「還りたい……一人は…イヤだ……」
「うん。分かってる……」

蔵馬が言うたび、青年は優しく言った。
そして蔵馬が泣いている間、ずっと側にいてくれた。
音もなく、大きな手で優しく包み込んで……。

 

 

 

「雨、止んだな」
「ああ…」

蔵馬の涙が止んだ時、空も泣くのを止めた。
そして小さく僅かだが、星が煌めいていた。
それは小さな輝きで……しかし、とても美しかった。

「ほら、行け…」

とんっと青年が蔵馬の背を押した。
確かに彼は幽霊だったのに、何故か感覚があった。
驚き振り返ったが……。

もうそこに彼はいなかった。
ただ、キラキラと光る何かがあり、それはふわりと飛んで行ってしまった。
慌てて後を追う蔵馬。
しかし、それはすぐそこの角を曲がったところで消えてしまった……。

 

 

「秀一?」

角を曲がってすぐ、背後から誰かに声をかけられた。
ばっと振り返ると、そこには……母・志保利の姿があった。
退社後の買い物をし終わったところらしい。
しかし、だからといって何故ここに……。

そこまで考えて、ようやく蔵馬は辺りの様子に気付いた。
いや、今まで何故気がつかなかったのだろうか。
ここは母の勤めている会社からそれほど離れていない商店街……蔵馬が入り込んだ路地は、そのすぐ裏手にあったのだ。
夢中で走ってきたので、まさか母が近くにいる方へ走っていたなど、思いも寄らなかった蔵馬。

 

ぽかんっとして立ちつくしていると、母が歩み寄ってきた。

「どうしたの? こんなところで……あら、随分濡れたのね。傘は? 飛ばされたの?」

ハンカチで息子の濡れた頭を拭いてあげながら、尋ねる志保利。
しかし、蔵馬は呆然としているのもあるが、まさか家を出ようとしたなどと言えるはずもなく、黙っているだけだった。
それを見て、志保利はしばらく何も言わなかったが……やがて、笑顔で言った。

「帰りましょう。晩ご飯の用意、手伝ってね」
「……うん!」

元気に頷く蔵馬。
無邪気に笑い、そして母の手から買い物袋を取って、歩き出した。

息子に何があったのかは分からない。
だが、今は……笑顔でいてくれるだけでいい。
それだけで志保利には充分だった……。

 

 

「ねえ、母さん」

ふいに蔵馬が母を見上げた。
その眼には、ちょっとした疑問と好奇心のようなものがあった。
息子がこういう眼をするのは珍しい。
志保利は不思議そうにしながらも、返事をした。

「なあに?」
「父さんってさ……若い頃、ロングヘアだった?」
「え? ええ、確か高校生の頃だったと思うけど。どうして?」
「ううん。何でもない」

高校生の時か…。
高校生になったら、髪でも伸ばそうか。
色は違うけど……。

そんなことを考えながら、蔵馬は家路についた。

そう、何にもかえられない『家』。
自分と母が生きる場所。

 

ふいに二人の背後に風が舞った。
蔵馬はちらりと振り返り、そして母に気付かれぬように、小さく呟いた。

 

「ありがとう。父さん…」

 

 

 

 

〜作者の戯れ言〜

これは緒方恵美さんが歌われている「silver rain」の2番を元に書いてみました。
1番だとちょっと無理があったので…。

あんまり…というか、ほとんど出てこない蔵馬さんの御父様。
多分、蔵馬さんが小さい頃に亡くなったんだとは思いますが…(妖狐の蔵馬さんにとって、15年なんて本当に「少し」でしょうし)。
でも全く蔵馬さんに何の影響も与えなかったということはないんじゃないかなと…。

そういえば、あの蔵馬さんが椅子から落ちて、志保利御母様が庇うシーン……アニメではこの部分、省略されてるんですよね。
あのお話好きなのに……何で、剛鬼との戦いであんなに時間とるんだ〜!(怒)
108話でちょこっと出たような気もするけど…。