<春風の祝福> 2

 

「綺麗な紅だね」

ふいに何処からか、声が聞こえてきた。
はっとし、辺りを見渡す蔵馬。
しかし誰もいない……。

 

蔵馬に緊張が走った。
敵……と考えるのが普通である。

浦飯チーム及び応援団の誰とも違う声だった。
澄んだ、大人になる直前の若い少年のような声。
嫌な感じはしなかったが、悪意や妖気を消す能力の妖怪もいないわけではない。

注意して、改めて周囲を見る。
さっきの連戦で使い切り、妖力はほとんど残されていないのだから、当然植物の武器化も不可能。
だが、だからといって簡単にやられるわけにはいかないし、そのつもりもない。
せめて道連れにくらい……そう考えていた、その時。

 

「やだな。そんな警戒しないでよ。全く知らない仲じゃないじゃない」

ふっと声の主が姿を現した。
しかも蔵馬の本当に目の前……距離は1mにも満たなかった。

根元から先まで、真っ直ぐな長い髪に、大きな瞳。
細い身体にまとっているのは、一枚の布。
適当に巻き付け、腰を紐でこれまた適当に縛っているという、かなり変わった風貌である。
年の頃は……15〜6だろうか?
だがそれは、あくまで彼を人間として見立てた場合のみの話である。
地面に足をつけず、向こう側が透けて見える身体を持つ者を、誰が人間として見られるだろうか?

 

突然のことにぎょっとする蔵馬。
しかし……彼の姿をまじまじ見た後、はあっとため息をついた。

「何だ、お前か」
「どうも。しばらくだったね」

自分のことを思いだしてくれたことが嬉しかったのだろうか、少年はにっこりと微笑んだ。
蔵馬の方は、呆れたようにまた一つため息をついている……どうやら敵ではないらしい。
しかし、彼の意見に蔵馬は賛成出来ないといった様子で、

「たった一年ぶりが、『しばらく』なのか?」
「酷いな〜。何処が一年だよ。一年と一ヶ月ちょっとは経ってると思うけど」
「そうだな。今年はかなり遅かったようだね。もう四月だ」

くすっと笑う蔵馬。
少年の方は、しまったという顔をしたが、もう遅かった。
一度言った言葉を取り消せるほど、蔵馬は甘くない……。

 

「何してたんだ?」
「……ちょっとね。色々あったんだよ。こっちも」
「どうせ寝坊したんだろ」
「……分かってるなら聞かないでよ」

ぶすっとして、そっぽを向く少年。
全身が透けているのに、顔の部分だけ赤くなって、半透明になっている。
そんな様子が蔵馬には面白くてたまらないらしい。
下を向いて、小さな声ではあったが、笑い続けていた。

 

「……そんなに笑うことないだろ」
「いや、ごめん。ちょっと笑いすぎたかな」
「ちょっとなもんか!……ったく、怪我してるのに元気だね」

そう言われて、蔵馬はようやく怪我をしていることを思いだしたらしい。
いつの間にか止血していた腕が緩んでいた。

「また戦ったの?」
「俺も妖怪だからね。今日は二匹殺した」
「別に相手のことなんてどうでもいいよ。それより自分の身体は大事にしてほしいね。お母さん泣くよ?」
「……そうだな」

少し間をおいて言う蔵馬。
ここにきてから……戦っている間も、母のことを忘れていたわけではない。
それは幽助たちも同じだろう。
待っていてくれる家族の元へ、どうしても帰らなければならないと……。

だが、現実は厳しく、帰る時のことよりも、今いる敵を倒すことを優先させねばならないのだ。
例え自分の身が砕けようと、勝たねば仲間たちにも被害が及ぶ。
それだけは避けなければならない。
仲間と仲間の家族のためにも……。

 

「妖力わけてあげようか?足しにしかならないだろうけど」
「出来れば頼む」

素直に言う蔵馬に、少年は少し驚いたようだが、何事もなかったように、手を蔵馬の頭上にかざした。
ふわりふわりと……まるで羽根のように、ゆっくりとしたペースで少年の妖気が蔵馬に注がれる。
確かに少年の妖力は大したものではなく、本人が謙遜のように言ったことは現実で、本当に足しにしかならないほどだった。

だが、今の蔵馬には、その気持ちだけでも嬉しかった。
霊力とは違い、妖力はかなり波長が合わなければ、分け与えることができない。
今、蔵馬の側にいる妖怪といえば、飛影と雪菜くらいのものだが、彼らとは大分ずれているのだ。
最も雪菜には妖力を与える以外に、治癒能力というものがあるらしいが。
桑原の手当に行っている以上、自分の怪我までは頼めない。

その点、少年の妖力は蔵馬とぴったり一致するものだったのだ。
おかげで僅かだが傷口が塞がり、次第に血も止まっていった……。

 

 

「……いつだっけ?君に初めて妖気を送ったのは」

ふいに少年が話題を変えた。
蔵馬は別段驚いた様子も見せずに言った。

「生まれた時だよ、俺が」
「そうそう。十六年前だっけ?」

 

 

 

……十六年前。

南野一家は、今の…庭に大きな桜の樹がある家とは、別のところに住んでいた。
といっても、当時はまだ若い夫婦が二人で暮らしていたのだが。
しかしもうすぐ家族が増えることは、本人たちは元より、周囲の誰もが承知していた。

母親の膨れた大きな腹。
新しい命が宿っているのは、一目瞭然だった。
最もそれが、魔界に名を轟かせた極悪盗賊の妖狐だと気づいた者は一人もいなかったが……。

だが、生まれた時は妖狐も人間もなかった。
本当に極普通に……他の赤ん坊と何ら変わらず生まれてきた。
いや、ある意味一般的な出産とは異なっていたかもしれないが。

 

蔵馬は予定日よりも、二ヶ月以上早く生まれてしまったのだ。
つまり早産……。
今の時代の日本は、医療が発達しているのだから、未熟児でも死亡率はかなり低い。
だからといって安心は出来ない。
初めての子ということが、更に夫婦の不安を高めてしまっていた……。

保育器の中で蔵馬は眠り続けていた。
いや、霊体としての意識はしっかりとあったから、全くの闇の中にいたわけではないが。
閉じられた瞼の向こう側、ぼんやりと何かが見えた。

 

妖怪だった。

人間に…とりわけ日本人にも馴染みのある妖怪でありながら、見ることは決してかなわない……。
蔵馬も見るのは初めてだった。
見えていたかも知れないが、気に留めていなかっただけという可能性もあるが、ともかくはっきりと見たのは、この時が最初だったのだ。

「……君、妖怪?」

宙に浮いたままの彼が話しかけてきた。
南野秀一という肉体に、微かに帯びた妖気を感じ取ったらしい。
蔵馬は別段驚きもせず、かといって睨みつけもしなかった。
『出来なかった』のではなく、『しなかった』のだ。
霊体としてならば出来たことだろうが、この時は……この妖怪には、そういう気になれなかったのだ。

 

「……ああ」

ぼそっとつぶやくように言う蔵馬。
もちろん霊体が喋ったのである。
肉体はぴくりとも動かずに、永遠に醒めぬのではと思われるほど、深い眠りに落ちたままだった。

「でも死にかけてない?」
「……そうかもな」
「妖力足りないんじゃない?」
「……かもな」
「分けてあげようか?」
「……」

 

一瞬、彼が何を言っているのか、よく分からなかった。

妖力を分ける?
たった今出会ったばかりの相手に?

妖力を分けるということが、どれだけ危険なことかは、妖怪ならば誰でも承知していることである。
妖力は妖怪にとって、戦うための武器であると同時に、動くためのエネルギー。
それをむやみやたらと、誰かに分け与えてしまうということは、すなわち自身の死を意味する。
なのに……この妖怪は全く躊躇なく言ったのだ。

「大丈夫だよ。僕の仕事は終わったから。しばらくはまた休んでていいし。だから余った妖力でよかったら、あげるよ?」
「……そんなことをして、貴様に何のメリットがある」

裏心があるとは思えないが、用心に超したことはない。
睨みこそしなかったが、蔵馬は言った。

「いつか俺は貴様を殺すかもしれんのだぞ」
「何で?」
「……盗賊だからだ」
「……そうなんだ」

流石に妖怪も驚いたようだった。
おそらく魔界へ行ったことのない、人間界で発生し、育った妖怪なのだろう。
人間界にはあまり妖怪盗賊は生息していない。
蔵馬のように、魔界を見限って人間界へ来る者は、まだまだ極少数なのである。

 

 

「でもさ」

妖怪が一歩蔵馬に近づいて言った。
遠ざかるならともかく、近づくとはどういう神経をしているんだと、呆れる蔵馬。
しかし次の言葉には、更に呆れかえった。

「盗賊なんでしょ?殺し屋じゃないんだよね?だったら、殺される覚えはないよ」
「……は?」
「だって僕お金ないし、財産もないし、妖力もみてのとおりだからね。殺したって価値ないよ」
「……」

論点がずれているというか、何というか……。
盗賊=殺し屋という数式が成り立つほど、魔界の盗賊に殺す理由など必要ないことを、彼は本気で知らないらしい。

それが蔵馬にとっては……呆れかえると同時に、新鮮で面白いものだった。
くっくっと霊体が笑う。

「……何?何か変なこと言った?」
「全部だ」
「失礼なこと、はっきり言うね、君は……それでさ。妖力いる?」

 

「……ああ」