第0夜 ひと欠片の粒子
5. 光の子、狐の子
夏に向けて大きな桜の枝々には、無数の葉が青さを増し色付いている。
「桜珂」 蕾螺に名前を呼ばれた青年は、懐かしそうに桜の瞳を淡く緩ませた。 「大きくなりましたね」 会ったのは自分が五歳になる年だった。 小さく、桜珂は笑った。
「そんなになりますか…」 妖怪より遙か寿命の長い神ではあるが、時間というものに人間相応の感覚が桜珂にはあった。
「ときに、らいら。正式な名を教えて頂けませんか」 言われ、はたっ、と蕾螺は気付く。
「…浦飯 蕾螺。――螺旋の蕾で、蕾螺、と」 「十七です。十一月で十八になります」 まるで親のように、桜珂はその表情を柔らかくする。 数秒だけ間を空けると、桜珂は訊ねた。
「……蕾螺。私を浄化してくれた者の名は…?」 思わぬ問いに蕾螺は驚いたが、反面納得する。
「…俺の弟で、浦飯 寵。四月で九歳になってます」 確かめのそれに、蕾螺は頷いた。
「もう一人…灰の髪と茶の瞳の――狐の子の名は?」 それこそ思いがけず、蕾螺は目をしばたかせた。
「……寵の友人の、南野 碧。十二月で九歳になりますが…」 困惑気の蕾螺に、桜珂はかるく目を丸くした。
「碧――その子は能力(ちから)が強い。稀(まれ)なる能力値」 かつて、よく自分に顔を出してくれていたひとが話してくれた。
「けれど、その能力はその子には強過ぎる。強過ぎて、その子は自身を滅ぼしかねない」 両親を超える、遙か高い能力。 「滅ぼし…」 掠(かす)れるような震えそうな声で、蕾螺は繰り返した。 「親互い共に、それは知らないでしょう」 不安一杯に蕾螺は息を呑んだ。 「理由はひとつ」 それを打ち消すように、凛とした桜珂の声が告げた。
「寵――光能者が傍らにいるから」 「…っ!」
蕾螺は目を丸くした。 「訊くと、寵が先に生まれていますね。だからこそ、碧は生まれた当初からその高い能力を制御されている」 制御されているのは、母のお腹の中にいた頃からだと思っていいだろう。
「今の状態でも充分、両親(りょうおや)の能力値は超えていますが…」 まぁそれはそれなのだ。能力制御は、碧の身体に見合うように働いているだけ。 結果、碧の高く強い能力に、誰もが気付かなくて当然なのかもしれない。桜珂が気付いたのは、一重に神だからに他ならない。
「…敵わないなぁ」 桜珂にも寵にも、碧にも。 「解りました。話しておきます」 秀一と梅流に。 「頼みましたよ」 知らないのは心配だ。
――さわ…
話の区切れを見計らったように、風が二人の間を緩く吹き抜けた。 「そろそろ最初の一仕事をしましょうか」 かるく蕾螺が会釈すると、桜珂は応えるように笑みを深くした。 間もなくして光の残像も消え、静かに風が丘に吹いた。 「……」 眩し気に『神桜』を瞳に映してから、蕾螺は丘を後にした。
* * *
やがて、蕾螺は感じる。 大気の中、桜の神の想いに。
皿屋敷全域に、やさしい風が吹いた。
* * *
「どうだ? あれからお前さんたちの市は」 書類に判を押しながら、摘深は訊ねた。 「んー…。変わったよーな変わってないような…?」 こども等に頼み『神桜』が無事浄化されてから、今日で三日目。
「まぁ確かに大きな変わりはないね」 小さく摘深は笑った。 何となく納得しつつ、秀一と幽助は目を合わす。
「……ま。かるくはなったよな」 秀一ももちろん気付いていた。 でも確かに、大気は変わった。決して微かではなく大きく、市内全域の負力が浄化されたのだ。
「陽星――っ! いるかいっ」 隣室の資料室から、ぼたんが半ば叫ぶように顔を出した。 「いないみたいだけど…。どうしたの? ぼたん」 摘深の終わった数十枚の書類を一つにまとめながら、秀一は訊いた。それを壁際の机に積み重ねる。 「資料室整理、手伝ってもらいたいんだよぉ! って、いないのかいっ?」 即答に幽助が肯定した。
「陽星なら、今中心世界だ」 こんな時に、と眉間にしわ寄せするぼたんに、摘深は首縦する。 「そうだ」 茶の瞳が、嬉しそうに細められた。
「神桜に会いに降りてる」
会えなくなってから、陽星はずっとこの日を待っていた――。
+第0夜*Episode.1.−5. 完
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