第0夜 ひと欠片の粒子

 

 

Episode.

 

 

   3. 桜の瞳
 
 
 
 
 
「っと、蕾螺悪りぃ!」
 
 
 勢い良くボールを蹴ってしまい、幽助はまだ幼い子に謝る。

 

「幽助、手加減しないと…」

 生まれて十月になる娘を抱きながら、シートに座る螢子が夫に苦笑する。
 シートの上には、他にも弁当やら水筒やらが鎮座していた。
 今日はGWを利用して、浦飯家は皿屋敷第2公園に遊びに来ているのだ。
 家計上、幽助と螢子共に互いに忙しいのだが、こどもとはちゃんと遊んでおきたい、という親としての気持ちからだ。

 

「おとうさん、とばしすぎーっ」


 文句を父に投げ、蕾螺はボールを拾いに背を向けた。
 乾き笑いをし、幽助は頭を掻いた。

「悪りぃ…」

 ボールへと走る小さくなっていく息子の後ろ姿に、聞こえないだろうが幽助はもう一度謝った。
 しばらく戻ってこないだろう、と幽助はシートに足を運ぶ。

 

 

 

 

「あれ? お袋は?」
「温子さんなら、蕾螺にアイス買ってくるって」

 困ったように螢子は笑った。
 目を一瞬丸くして、幽助は肩を竦めた。

 

「ホントしっかり、婆ばかだな」

 いまさらだが。
 売店まで、ここからだと結構な距離があるのに。

 

 ちなみにシートに陣地を広げたのは、この公園内の主とも言われている『神桜』の近くだ。
 解放空間を幽助が好むのだから、小高く開けたここになるのも自然な流れだろう。
 隣に立つ幽助を、螢子は見上げる。

 

 


「私と幽助の分も買ってくるって」
「俺たちの分も? いつもなら蕾螺と琉那中心で、俺等は素通りなのに?」


 信じられなそうに眉を寄せる幽助に、螢子はさらりと言った。


「幽助の仕事がちゃんと定まったものが出来たから、肩の荷が下りたのかもね」


 今までよりも温子は明るい表情をしていたから、それだろう。

 


「……あぁ、なぁ?」


 自覚はあるので、幽助は思わず目を泳がした。
 息子を早くも作り、なのに幽助の就く職と言えば、収入の安定しない屋台ときた。
 教師志望の螢子は、当時まだ大学生。これには温子は頭が痛かったろう。
 それでもどうにか無事、螢子が大学を卒業。螢子頼みだが、やっと安定した生活を期待――した矢先、二人目が出来たのだ。

 


「琉那は?」
「眠ってるわ」


 問う幽助に、螢子はゆっくりと娘を揺らしながら答えた。
 こどもに罪はない。
 だからこそ産んでもらったのだが、さすがに幽助は家計の状況に頭を痛めた。夫なのに妻にばかり頼るのは、やはり胸が痛い。
 見かねた秀一が、最近になって幽助に誘いをかけてくれたのだ。

 

 

 


「……」


 かわいい寝顔だ、と幽助は瞳を細めた。
 まあるい頬にまとまりだした細い髪。ちいさい手は上手く開かず、閉じた瞼はやわらかく息づかいを伝える。
 もともと小さい子はすきだったが、我が子はさらに愛が増す。
 腰を屈め、幽助は眠る娘の頬にやさしくキスをした。

 

 


「…いつか、一軒家に住みたいな」
「…住みたいわね」


 未来のやさしい夢だ。
 額をくっつけふたりは微笑する。互いの前髪が、なんかくすぐったい。
 秀一と同じ職に就いたおかげで、月毎にまとまった収入が入り、安心した生活を送れるようになった。
 けれど、今までの赤字分があり、取り戻せるのは普通にいっても何年かは先だろう。
 それでも。
 ふたりはどちらからともなく、唇を合わせた。祈りのように。
 
 
 やさしいあたたかい未来を夢に――。
 
 
 
 
 

 

 

「まったく…」
 
 今年五歳になる蕾螺は、だいぶ高台に飛ばされたボールを拾い息をひとつ吐いた。
 ふ・と、何か気配に気付き蕾螺は顔を上げた。

 

 


「――?」


 見上げれば三メートル先ぐらいに、枝一杯に鮮やかな葉を茂らした『神桜』があった。
 


 そこに、ひとがいた。
 男のひとだ。
 
 他にも遊びにと来ている人たちがいるのだが、なぜかそのひとの存在感が蕾螺の目を奪った。
 そのひとはどこか遠くを見はるかしていた。

 

 

 


「…なにしてるの?」


 声をかけると、そのひとは蕾螺に振り向いた。

 

 切り揃えられた腰辺りまでの髪が、舞うように流れた。その髪は透き通るような黒い色をしていて、瞳は淡い桜の色だ。
  年齢は二十代半ばぐらいだろうか。すらりとした体躯で、百七十辺りの身長。
 服装は簡素な白い着物だが、振りの部分はない袖だ。袖裾には巫女のように、紫がかった藤色の布が通っている。長襦袢(ながじゅばん)と帯は紫だ。
 左襟元には透明度の強い宝石の飾りがあり、水色がかった青色をしている。そこから繋がる鎖は長く金色で、その先にも宝石が付いている。
 襟元よりは小さいそれは、白…いや淡い桃色だ。
 足には何も履いていない。

 

 自分を見、なかなか答えないそのひとに、蕾螺は首を傾げた。

 

 

 


「おにいちゃん?」
「☆」


 そう呼ぶと、そのひとは目を丸くした。
 数度瞬きをして、そのひとは訊ねてきた。

 

 


「…汝、私が視えるのですか?」
「? みえるよ」


 質問の意味が解らなかったが、蕾螺は素直に頷いた。
 もう二度ほど瞬きをして、そのひとは笑った。
羽織ってる白い布が、静かに揺れる。

 


「珍しい。強い『眼』を持ってる者が、今この世界にとは…」
「?」


 言ってる意味が通じず、蕾螺は眉を寄せた。
 ふわ、と桜の瞳が穏やかに自分に向けられる。

 

 


「汝、名は?」
「…うらめし らいら」


 一瞬戸惑ったが、蕾螺は素直に答えた。知らないひともいいとこなのに、警戒心が不思議と感じなかったからだ。
 そのひとはやさしく微笑した。やさしい春の満開の桜みたいに。

 


「らいら。…そうですか、憶えておきましょう。私は、桜珂、と」
「さいか…」


 確かめるように、蕾螺はそのひとの名を口にした。

 

 

 


 
「蕾螺ー?」
 
 家四件分は下だろう所から、幽助が呼んだ。なかなか戻ってこないので、心配になったらしい。


「ぁ、うん。いまもどるーっ」


 大きな声で返し、戻ろうと足を動かした矢先。
 不意に、気配が消えた。

 


 
 振り向くと、そのひと――桜珂の姿はすでになかった。
 
 ものの数秒で見えなくなる場所まで普通は移動できるわけないのだが、蕾螺は深くは考えなかった。別に変だとも思わなかった。
 
 
 
 それはなぜだろう?
 
 

 

 

 


 
 
 
「……、…」
 
 ピチチ、と外から鳥の鳴き声がする。
 朝か。
 蕾螺はぼんやりと薄明るい天井を仰ぎ、しばらく寝たままで頭を起こしていく。

 


(なつかしい、ゆめ…)


 何年前だ。
 まだ琉那が一歳になるかならないかのそれぐらいだったから、十三年前あたりか。

 


(……あぁ、そうか)


 あのひとは。
 そこまで思い当たり、蕾螺は肘で上体を起こすと欠伸をひとつ零した。
 六畳の自室をかるく見渡す。妹弟の物が置いていない、自分の部屋。自分の物だけが置いてある、私室。

 


(まだ少し…慣れねぇなぁ)


 マンションで二人部屋だった時は、二人分の物が所狭しと置かれていた。
 いまや一人分だけの物が置かれているすっきりとした自室は、どこか物わびしさを感じる。

 


「しかし奇跡に近いよなぁ」


 一軒家を買えたのは。
 たまらず蕾螺は苦笑した。

 

 今年の春期休暇に、浦飯家は念願の一軒家に引越しを果たした。こども部屋四室は全て二階にあり、各六畳になっている。
 けれど蕾螺が実家に戻らないのは、ローンやらの出費が痛いのを知っているからだ。
 寮に入っていれば、成長期一人分の食費ぐらいは浮かせられる。食費だって馬鹿にならないのだから。
 もうひとつの理由は、家を離れたい時期にいるせいだろう。男子はある程度の年齢になると、そんな時期が訪れるものなのだ。

 

 

 


「カーテン、開けるか…」


 無造作に頭を掻くと、蕾螺は背伸びをしてベットを下りた。
 しゃっ、とカーテンを開けると、窓からの陽光で部屋は明るく照らされる。
 着替えを済まし、椅子に置いた荷物から、必要になった物を取り出した。
 銀の鎖に、円型の親指ほどの紫の石。その石は、コインよりは少々厚めだろうか。

 

 


「これも久しぶりに使うな」


 もしもの為に常に持ち歩いてはいる、ペンダントだ。なくてもある程度どうにかなるが、合った方がやはり有利である。
 ペンダントを首に下げると、蕾螺は朝食をすでに作りはじめている螢子を手伝いに廊下へと足を運んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 +第0夜*Episode.1.−3.完