真っ暗な夜道を走っていた。
仕事帰り。残業もあったから、遅い時間になってしまった。
既に周りは暗い。勿論街灯はついているけれど、それでも道のあちこちに出来る暗闇は得体が知れなかった。
「早く帰ろう」
家までの道を走る。
出来るだけ、暗がりには入り込まないように気をつけながら。
街灯は道を明るく照らすけれど、その反対に闇を一層濃く浮かび上がらせる効果もある。
私は闇が濃い場所に近寄らないように、慎重に、しかし小走りに走っていく。
だけど、もともとそれほど運動神経のよくない私のこと。
息が切れて、ふと電信柱に手をついたそのときに。
暗い闇が私をふわりと包み込んだ。
心のどこかで知っていた。
暗闇は危険なのだと。この平和な世から乖離した場所が手招いているようで。
だから道の端には寄らないようにしていたのに。
少しの気の緩み。
しまった、と思ったときには私は闇の中に落ちていくところだった。
そう、暗い、昏い、闇の中へ。
堕ちて行く。
堕ちてゆく
報せは、黄泉がもたらした。
黄泉も別の部下から聞いたのだという。それはそうだろう、血の気の多い黄泉に、最初に見つかっていたのなら、は無事ではなかった。
オレが最初にを知ったのは、黄泉からの報告。
「娘が天から落ちてきた、という報告が入ってきた」
「天から? 娘が?」
「人間のようだ」
普段のオレならば、捨て置けと言ったかもしれない。
捨て置いた結果、その人間の娘がどうなるのか、熟知した上で。
だが、この時は少しばかり暇だった。
だからオレは立ち上がる。
「見に行こう。手を出さないように言っておけ」
珍しい、という顔をした黄泉にオレは小さく笑う。そして告げた。「ただの気まぐれだ」と。
「この娘か?」
オレが出向いたのは森のはずれ。そこは比較的穏やかな妖怪の棲む場所だった。それもまた、彼女には幸運だったのだろう。
いくらオレがこのあたりを仕切る盗賊の頭だと言っても、配下ではない妖怪まで抑えられない。また、落ちてきた人間の娘を守れとも、部下に言う気はない。
人間の娘よりも部下の方が大事。
今、手の足りないこの時期には。
部下はモノも言わずに頷き、娘をちらりと見る。
娘は木に縛り付けられていた。荒縄の感触は優しくない。
縛られた腕が、赤くなっていた。既に気付いているのだろうが、目は開いていない。
目を閉じたまま、魔界の風が彼女の髪を弄んでいく。
近寄ったのはオレ一人。他の部下には近寄らないよう手で合図を送る。
人間の娘に、妖怪は見慣れないだろう。
いや、それも、今更な気遣いなのかもしれなかった。
「お前、名前は?」
尋ねたオレに、その娘はようやく目を開けた。オレも、気を失っているなどとは思っていない。
彼女を取り巻く気配は、意識があることを物語っていたのだから。
娘は顔を上げる。まっすぐにオレを見上げて。
その瞳には、不思議と畏れはなかった。
伺えるのは少しの不安。だが、それだけ。
「。あなたは?」
縛り付けられても。
こんな待遇でも揺るがない瞳に、強さを感じた。
力は何もない。
非力な人間の娘なのに。
「蔵馬。妖狐、蔵馬」
気付けばオレも名乗っていた。
の傍らに跪き、を縛っていた戒めを解く。
「お前人間のクセに、何ともないのか?」
「何とも?」
「鈍い奴だ」
小さく笑ったオレを、は眉を潜めて見上げる。しかしその顔には、未だおびえは浮かばない。
「ここは魔界。普通、人間はここの空気を吸っただけでもあの世行きだといわれているのだが」
「え?」
ようやく、の目が丸くなる。
だが、訪れた変化は小さかった。オレの予想より。
「どうやったら帰れるの?」
「無理だな」
オレは即答する。霊界が壁を作っていて、自由に魔界と人間界の行き来は出来ない。
すなわち。
「たまに運悪く落ちてくる人間がいる。だが、逆はできない」
「帰れない?」
「そう、帰れない」
「・・・・・・困ったな」
意地悪く答えたオレだったが、はさして困った様子もなく、そう呟いた。
「困っているようには見えないが」
「困ってる」
「本当か?」
どこかおっとりと頷くに、オレは苦笑した。困っているようには見えない。だが、確かに人間がこんなところに落とされれば、普通は困ってしまうだろう。
「気に入った」
オレの一言に、はオレを見た。何を、と言いたげな顔を、軽く指で弾く。
「お前、オレと一緒に来て、盗賊をやる気はないか?」
「あなた、盗賊なの?」
頷いたオレに、は申し訳なさそうに告げた。
「行くところもないから、盗賊になるのは構わないけれど・・・・・・役には立たないと思うよ?」
構わない、とオレは告げた。そして黄泉を筆頭に、部下たちの大半が反対するなかで、オレは強引にを仲間に加えた。
「・・・・・・本当に、役に立たないけれど、な」
今は隣で眠るようになったの髪をなで、オレは呟く。
出会いの場面は、何度も何度も夢に出てくる。
今のように。
横たえていた身体を起こし、が眠っているのを確認する。
本当に、は何の役にも立たない。戦えないし、戦略も理解しない。
人間とはこんなにも無力な生き物だったのか、と、オレですら呆れるほどに。
だが。
「最初から、惹かれた」
言葉に出してみると、それがまさに真実であったことを確認できる。
そして今でも、に惹かれている。
何も出来ないのに。
守られることしか。
それは、この魔界においては致命的な欠点。戦えない、などということは、この魔界では、生きてい
く意味がないということ。
それでも、はオレを魅了し、魔界に落ちて来てもこうして生き延びている。
勿論、の命運はオレ次第なわけで。
オレが負けたときには、もまた、オレの運命に殉じなければならなくなるだろう。
だから、負けられない。
「蔵馬」
がオレの名を呼ぶ。
全く緊張感のない声で。おそらくは、本当に寝入っているのだろう。
この魔界で、今ほどに緊張感のない存在はどこを探してもいないに違いない。
緊張感を途切らせるということ。
それはすなわち、死に繋がるのだから。
「きっと、オレはのその、平和ボケしたところに惹かれたのだろうな」
オレは苦笑し、と数年過ごすうちに気付いた真実を口にした。
戦いの中にこそ、生きる場所がある。
そう信じていたけれど。
今のこの戦いは、いずれ国を立てるときの礎。
別に、この魔界に、平和な世の中を作ろうと思っているわけではない。
だが、たまには綺麗事をいってもいいのではないかと思える。
を見ていると。
平和を具現化したような娘。
魔界にはいない。
この魔界が危険な場所だと、感覚的には理解しているようだったが、それでもまだまだ危うい。
それは、が、今まで本物の平和の中で暮らしてきたことの証。
だからこそ、この魔界ではこんなにも際立つ。
この魔界に、平和慣れした存在などありえないから。
最近では、あれほどを傍に置くことに反対した者達の中でさえ、の平和ボケに感化されたか、の存在に目を留める者が増えた。
それはきっと、いいことなのだろう。
勿論、の価値に真っ先に気付いたのはこのオレ。
手放すことなど考えてもいない。
「蔵馬?」
オレの視線に気づいたか、がうっすらと目を開けた。
「どうした? まだ暁には早いぞ」
囁くと、は小さく頷いた。
「蔵馬の視線を感じたから」
の呟きに、オレは小さく笑った。
「がそんなに敏感だとは思わなかった。オレの視線に気づくとは、な?」
「気付くよ。蔵馬の視線なら、気付くよ」
目を閉じたまま、の口元に淡い笑みが浮かぶ。
「絶対、だな?」
「うん」
平和を望んだことはない。
平和がどのようなものか、考えたこともない。
だが。
との時間を平和と呼ぶのなら。
平和も、悪くはない。
の育った人間界を、見てみたい。最近、そう思う。
軽くの頬にキスをして。
オレは再び小さく笑った。
がこの魔界に落ちて来たのは。
それはオレもまた、との恋に落ちて行くためだったのだと。
「もう少し、眠ろう」
「うん」
この恋は、底がない。
きっとどこまでも。
オレはに。
堕ちて行く。