「いい香り」

 この季節。
 訪れはいつも、この香りが気付かせてくれる。金木犀の香りが。


 「秋、だね」
 「ああ、秋めいてきたね」


 頷いて柔らかな、夕暮れの色をした小さな花を見る。暖かな色。この、だんだん冷えていく季節、どこかほっとするその色。


 「そういえば気になってたことがあったんだ。聞いてもいい?」

 唐突に振り返ったに、オレはつい何も考えずに頷いてしまい、それから少しだけ嫌な予感に気付き眉をひそめた。相手がだと、どうも緊張感や警戒心を保てない。
 考えるよりも前にうっかり頷いてしまう、なんて、どう考えても交渉下手のやることだ。


 そんな反省をして。
 でも頷いてしまったものは仕方ないと腹をくくってを見た。

 相手はだ。
 この自分さえもが警戒しないでついうっかり頷いてしまうほど、近い相手。


 恋人相手に警戒するもなにもない。
 そんな風に自分の心を納得させて。


 「……何?」

 しかし、言葉にして問いかけるのに、少しの間を必要とした。


 「蔵馬、なにか緊張してる?」


 はといえば、少し目を瞠ってからくすりと笑う。


 「別に変なことじゃなくて。夢幻花ってあるじゃない?」
 「夢幻花?」

 いきなり話がとんだ。
 いや、金木犀の話から続いたことを考えれば、花つながりということだろうか。

 「そう、夢幻花。私、見たことがないから、どんな花なのかと思って」


 蔵馬は夢幻花を使うくらいだから知ってるでしょ、と問われて知らず小さく息をついた。少し安心して。


 「なんだ。改まって尋ねられたらどんな話かと思うだろう? 夢幻花は、……オレもそんなに多用はしないし、今はもう、使う気はないけど」

 小さく苦笑して答えを続ける。
 夢幻花を多用しているなんてに思われるのは好ましくない。


 「その名の通り、透き通るような不思議な色合いの花弁を持つ花だよ。記憶を消される瞬間、それはそれはいい香りがするらしい」
 「するらしい?」
 「オレはかがないように気を付けているからね。香りを吸い込んだら、自分の記憶まであいまいになる」

 がそのとき、ちらりとオレを見た。
 だからオレは失言を悟る。今の会話のどこかで、オレは失言したらしい。


 「蔵馬も、もしかして記憶を消されたことがあるの?」
 「……」 


 は時々、とても鋭い。
 いつもは鈍いくらいなのに。


 「なぜ?」

 注意深く聞き返したオレとは対照的に、はくすくすと笑った。
 どうやら、ばれてしまったらしい。
 夢幻花を吸い込んで、記憶を失いかけたことが一度だけ、ある。


 「そっか、蔵馬、自分が記憶を消されたから、夢幻花に記憶を消す作用があるってしったのね」
 「なぜそう思う?」


 繰り返し尋ねる。いったい今の会話のどこに、に、自分のミスを気付かせるだけの失言があったのかはっきりさせるために。


 「前から不思議だったのよ。なんで蔵馬は夢幻花なんてものを知ってたのか。自分で効果を試してなければわからないよね」
 「……今の会話のどこで、オレが自分で試した、なんて結論に至ったか、聞いても?」


 再度注意深く尋ねたオレに、は笑いだす。


 「蔵馬って頭がいいくせに、時々不思議になるよね」
 「いや、それはオレのセリフだろう? は時々、読心術でも使えるのかと思うことが多々ある」
 「あ、やっぱり自分で試したんだ?」


 ……にカマをかけられ、それに引っかかるとは。
 オレは言葉を失って、一瞬後、じろりとをにらむ。が。


 「ごめんごめん、カマをかけたわけじゃなくて。大丈夫、その前からわかってたから」

 笑いながらは手を振って。


 「だって、ね。夢幻花のいい香りがするらしい、って、そこはあいまいな表現だったのに、香りがしたら記憶を消すってことはよく知ってたから。香りをかいだら、そのことを含めて自分では忘れてしまって、だけど記憶だけはあいまいになってたことがあったのかなって」


 「……それを言うなら、。夢幻花のことを誰かに教えてもらって使う場合にも、オレと同じ表現になると思わないか?」

 いい香りがするらしい。
 香りがすると記憶が消える。


 使ってみれば、記憶が消えることは実証される。香りだけは自分ではわからないことだけれど。



 「あ、……そういわれてみればそうかも。……でもいいの、蔵馬の場合、私の指摘通り、自分で試したんでしょ?」

 それであってたんでしょ、とあっけらかんと言われて苦笑するしかない。


 「のその、時々現れる、神がかったような直感力、何か有意義に使えないか?」

 そんな風に何もかもすっ飛ばして直感で真実がわかれば、それほど便利な力はない。


 そう思ったのだけれど。
 肝心のはきょとんとして。


 「無理だよ」

 きっぱりそう断言するからオレは拍子抜けした。


 「なぜ?」
 「だって、私のこの直感はね、蔵馬が相手のときでないと発揮されないから」


 ……は、そんな風に、オレを心底嬉しがらせる言葉をさらりと放ち。
 だけどそれを全く自覚しないままで。


 「ホント、金木犀っていい香り」

 金木犀の香りをうっとりと堪能しているものだから。


 「……やられっぱなしだな、オレは」

 苦笑交じりに降参して。
 オレは後ろからをそっと、抱きしめた。

 

 

 

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