窓を開けた瞬間、気づいた。
香りが窓からふわりと入り込んだことに。
それが何の香りか、花の名前が浮かぶよりも前に、思わず口からこぼれた名前。
「」
彼女の名前を呟いて。
それからもう一度、花の香りを吸い込んだ。
この季節になると漂う、金木犀の香りを。
なぜか香りに触れると心が軽くなり、幸せな気持ちになる、その香りを。
金色の花が香る季節
「悪い、急に呼び出して」
片手を挙げて、喫茶店に入ってきたに合図を送る。
勿論合図するまでもなく、彼女は蔵馬に気づいていて、まっすぐに蔵馬の方へと歩いてきていたけれど、途中で手を上げ、声をかけた蔵馬に、それはそれはうれしそうに微笑んだ。
「気にしないで下さい。今日はお休みなんです」
笑って首を振ると、の長い髪が揺れた。
なぜか、の髪が揺れた瞬間、金木犀の香りが広がった気がして、蔵馬は目を細める。
「だから声をかけてもらえてうれしかったですよ?」
ふふ、と笑って蔵馬の前に座ったに、蔵馬はもう一度笑みを見せ、それからオーダーのために手を上げて。
「え、私まだメニュー見てな……」
きょとんとしたに構わず、「アールグレイと和栗のモンブランを」なんて勝手に注文してから、蔵馬はに片目を瞑って見せた。
「ココアやパフェが好みだっていうのは知ってるけど、ここは、季節限定和栗モンブランがおいしいって話だから」
そんな情報、一体どこから仕入れたのやら。
が目をぱちくりとさせた様子がかわいくて、蔵馬はぷ、と小さく吹き出した。
「幽助が」
「……ああ。螢子さん」
短い単語で理解してくれたに、そういうこと、と頷いた。
幽助が、秋になると螢子とよくこの店に来るのだと言っていた。正確には、螢子が限定和栗モンブラン目当てに幽助をこの店に引っ張ってくるのだ、と。
「だから和栗モンブラン」
「そ。試してみてくれないかな?」
「喜んで」
そういうことなら、とも満面の笑顔で。
だけど、運ばれてきたケーキを見て、は目を丸くした。
「あの」
「何?」
「……ずいぶんと、大きくありませんか?」
予想していたよりも、遥かに。
どう見ても、一人で食べるには大きすぎる、そのケーキ。普通のモンブラン5個分はあろうかというその大きさに、はしばらく視線をケーキから離せなくて。
ようやく視線をケーキから外して蔵馬を見上げれば、蔵馬は肩を震わせて笑っていた。
「の誕生日だから」
「……え」
「誕生日、おめでとう」
「…………ありがとう、ございます」
お礼を言って。
それからどうしようかと視線をさまよわせるに、蔵馬がフォークを伸ばした。
「見ているだけではなくならないよ?」
「え、あ、はい」
頷いてもフォークを手に取ったが、がフォークを手に取った瞬間、蔵馬はいたずらっ子のような笑みを浮かべて「あ〜ん?」なんて言うものだから、は再び目を白黒させた。
「え……と、あの、いや、自分で食べられますから!」
「、ここまで差し出したこのフォークを、いまさら引っ込めてオレが自分の口に運べるとでも?」
にっこり。
微笑まれてしまえば、が折れるより他ない。
「はい、口をあけて」
言われるがままに口をあけて。
ケーキがそっと差し入れられたから、口を閉じた。蔵馬はすべるようにフォークを引き抜いていく。
「どう、おいしい?」
「……」
言葉にならないから、ただ頷く。
そんなに、蔵馬はまた肩を震わせて笑った。
「ケーキを食べ終えたら、散歩しようか」
顔を赤くしているに、蔵馬は、笑いを引っ込めて提案して、それから再び優しい表情になった。
「誕生日、……その、覚えていてくださって、ありがとうございます」
が目を伏せて、まだ頬に朱色を残したままでお礼を言う。照れを隠すように、もまたフォークでケーキをすくって口に運んだ。
「……おいしい」
先ほど、蔵馬に食べさせてもらったときは、正直味なんて分からなかった。
二口目、自分で食べれば、その上品な甘さが口の中に広がって、思わず笑みがこぼれる。
「いや、……正直に言うと、金木犀に教えてもらったんだ」
「え?」
三口目を頬張ったは、蔵馬の返事を聞いて、視線をケーキから蔵馬へと戻す。
「の誕生日。正直に言うと、金木犀が咲くとを思い出す」
そういって、蔵馬もまた、持っていたフォークを反対側からケーキに突き刺したから、はその手がこちらに向けて上がる前に、あわてて自分の口にケーキを更に詰め込んだ。
あーん、は要りません、という意味を込めて首を振ったに、今度は蔵馬が目を瞠って。
「……ああ、その。……これはあーん、じゃなくて、自分でも食べてみようかと思ったんだけれど」
「え、そうだったんですか!」
「一人で全部食べる気だった?」
再びからかうような目を向けられて、は手を振った。どうぞどうぞ、とジェスチャーすれば、再び蔵馬は吹き出して。
「相変わらず、はからかい甲斐がある」
「からかわないで下さい!」
もう、と少し膨れながらもはケーキをフォークでつついた。
「金木犀の並木道を見つけたから」
まだ、先ほど照れた余韻で頬の熱をもてあましているのことを翻弄するかのように、蔵馬は穏やかな笑みに戻って、話題をも元に戻した。
「金木犀の?」
「そ。と歩けたらいいと思って」
「わ、行きたいです!」
大きく頷いたは、アールグレイを一口飲んでから言葉を続けた。
「今年はまだ、金木犀を見ていないから」
何気なくが言った言葉に、蔵馬が驚く。
「え」
「何ですか? 本当ですよ?」
「さっき、がカフェに入ってきたとき、から金木犀の香りがしたような気がしたから」
金木犀の傍を通ったのかと思った、と続けた蔵馬に、もまた目を丸くした。
「そうですか? 珍しいですね、花の香りを勘違いするなんて」
うちの庭には金木犀はありませんよ、と勝ち誇った顔になったに、蔵馬も苦笑する。
「確かに。……でも、今理解した」
「何を?」
は既に再びケーキに熱中しつつあった視線をちらりと蔵馬に戻すけれど、すぐにその視線はケーキへと舞い戻る。
「自身から、いい香りがするんだ。金木犀に似た」
「……は?」
フォークを加えたまま、の目が、これ以上ないというくらい大きく見開かれた。
「もう少し傍によって、の香りを吸い込んでみたい」
「……だっ!……だめです!」
大きな声を上げかけて、は自分で自分の口をふさぎ、それから少しトーンを落としつつ、再度真っ赤になりながらきっぱりと首を振った。
「だめ?」
「だめ!」
「……、頬がよく熟れてる。美味しそうだよ」
蔵馬が小さく笑えば、は身体ごとソファの背もたれいっぱいまで後退した。
「……そこまで警戒することないんじゃないかな?」
「そ、そうですね。っていうか、別に警戒なんて」
口で否定しつつ、は更にお尻を後ろに後退させようと努力している最中だったから、蔵馬はテーブルに、お行儀悪く頬杖をついた。
「もしかして、オレは玉砕なのかな」
「玉砕?」
「そ。……これからは、金木犀の季節が終わっても、の傍にいて、の香りを楽しみたいと申し込む予定だったんだけれど」
「…………はい?」
どういう意味、と素で首をかしげたに。
蔵馬は両手を挙げた。
「降参。つまりに、オレの傍にいて欲しいってこと」
「……傍に?」
「そう。の傍にいると落ち着く。だから最低でも週に二回はオレと一緒にすごしてもらって、のことをもっとオレに教えて欲しい。週に二回に慣れたらもう少しずつ一緒にいる時間を増やして、最終的には一緒に住めたら」
の手から、フォークが落ちた。
「勿論、結婚って意味だけど」
にっこり。
笑った蔵馬に、は、数十秒、真っ赤なままで固まっていたけれど。
「……か、からかっているんですね?」
なんとか、言葉を搾り出した。
「……からかってなんていない」
笑みを苦笑に変えた蔵馬から、フォークを奪い取る。
「。にフォークをとられたら、オレがケーキを食べられない。あーん、してくれるのかな?」
「す、するはずないでしょう! フォーク、もらってきてください!」
「はいはい。早速既に尻に引かれるのも、まあいいか」
「だから別に、私たち、結婚したわけじゃありませんから!」
「分かってる、これからするんだよね」
もう! と真っ赤な顔でにらんでくるに、怖い怖い、と笑いながら、蔵馬は席を立った。
まだしばらくは、こんな感じを楽しみたい。
が、自分の気持ちを受け入れてくれるまで。
新しいフォークを受け取った蔵馬がのいる席を振り返れば、そこだけに、暖かな金木犀色の日差しが輝いていた。
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