「はい、もしもし。……どうしたの?」


 の携帯電話にかけたら、コール2回分で出た彼女は、すぐさまそう言った。
 今の携帯電話は、とる前に誰から掛かってきたのか、ディスプレイに表示される。
 
 
 だけど、そんな機械がなくても、きっとは、オレからの電話は分かるに違いない。
 そんな妙な確信とともに、オレはふっと、笑ったのだった。











「電話越しの君」








 三竦みが続く魔界の一角。
 夏休みの間だけという約束で、オレは今、黄泉の参謀として戦列に参加している。
 オレのたった一人の母さんは、現在再婚して新婚旅行の最中で。新しくできた弟は、その間新しい父さんの親――つまりはオレにとっても新しくできた義理の祖父母――のところにいる。
 だからオレは現在一人、こうして魔界にいる。
 
 
 黄泉への借りを返すために。
 




 旅行中の母さんからの電話を切って、それからなんとなく、脳裏に思い浮かんだのは君の顔だった。
 魔界に来てからは、いくら乞われて参加しているとはいえ、オレを信用していない者の方が多く、それは黄泉にしても同じだろう。
 腹を探り合い、隙を窺う。そんな日常が、かつては当たり前だった。



 だけど、一度人間界に降りて、人間としての穏やかな生活を知ってしまった今のオレには、ときどき重く感じられるものでもあって。
 油断は命取りだとわかっていながら、どうしても、君の顔を思い出すことをやめられなかった。




 思い出すだけでなく、こうして連絡をとろうなんて。
 ずいぶんとオレも、我慢強さが失われたらしい。



 小さく自分に苦笑したら、電話越しの君がもう一度、「どうしたの?」と尋ねた。
 それは別に、やわらかな声音でもなく。



 訝しげな声で。
 それでもきっと、は電話の相手がオレなんだと疑う風はない。



 「もしかしたら、オレじゃない別人だっていう可能性は、考えてなかったかな?」
 
 
 
 ようやく口を開いたオレから発されたのは、そんなからかいの言葉。
 
 
 
 
 「何言ってんの。携帯のディスプレイにちゃんと、南野修一って表示されたもん」
 「オレが携帯を落として、それを拾った誰かが適当にかけたのかもしれない」


 からかうような声でそう絡むと、は呆れたように笑った。




 「それはない」
 「なぜ?」
 「携帯を落とすようなドジ、しそうにないもの」
 「……それは……そうかな。確かに」




 自分が何かを落とせば、それはすぐさま気づく。人間の無防備さには時に呆れるほど。
 だから、そんなオレは、人間から見れば、かなりしっかり者に見えるらしかった。
 
 
 
 確かに、のうっかりぶりは、無防備な人間の中にあってもひときわ目を引くような気がしているのだが。
 ……しかし、それは、ただオレがばかり眼で追ってしまうからかもしれない。




 「夏休みの宿題、終わった?」



 別に、何か用事があって電話をしたわけではない。だから、再び改まって「何か用事?」とでも聞かれたら、言葉に詰まっただろう。
 オレと――――は、付き合っているわけでもなく。
 


 オレにとって、彼女は少し特別な位置にいる、というだけで。
 彼女にとって、オレはどんな存在なのか、よく分らない。




 「うん、まあ」
 「うわ、さすが盟王高校首席!」
 「それは関係ないだろう? 宿題なんて、さっさとやるか、後回しにするか、だ」
 「うう、耳に痛い言葉を」



 そんなやり取りで、まだが宿題を終えていないのだと知った。




 「そんなに難しい宿題はなかったじゃないか」
 「そんなことないよ。数学のあの問題集の分厚いこと! あれを目の前にすると、どうしても枕に見えちゃうのよねぇ」
 「……一体あと何ページ残ってるんだ?」
 「何ページ? 残ってるのは分からないけど。むしろやったページが数ページ」
 「今から頑張れ」




 溜息とともにそんなやる気のない励ましの言葉をかける。電話の向こうで、が「薄情者」と恨めしそうに呟くのが聞こえた。




 魔界の空に、不意に遠雷が輝いた。どこか遠くから、轟く音が聞こえてくる。



 そんな中で、君と話している不思議さを思う。
 魔界は常に、オレの中では暗い場所で。
 陰謀と策略がうごめく場所で。




 気を緩めず。
 気を許さず。




 こんな風に、魔界で笑う日が来るなんて思わなかった。
 魔界で君の声を聞く日があろうとは。




 「始業式の日さ、午後、暇?」
 「うん。何で?」
 「もし、宿題がちゃんと全部終わってたら、何かおごるよ。ご褒美」
 「え、ほんと!?」
 
 
 オレの申込みに、電話の向こうでの声が弾んだ。




 食べ物につられて喜んでいるに、オレは苦笑する。
 オレに誘われたから喜んでいる、という関係になりたいものだけれど。




 「で、もし終わってなかったら、反対におごり、だね?」
 「え〜……その代わり、宿題、写させてくれる?」
 「ちゃっかりしてる奴」



 いいよ、と言えば。
 もまた、笑った。
 
 
 
 
 「できればおごらせたいし、ゆっくり話したいから頑張るわ」
 「そうしてくれ」




 そんなやり取り。




 遠く暗く霞む空にぴかりと再び雷が走る。
 
 
 
 「あ、ねえ」


 がふと、声の調子を変えた。
 
 
 
 
 「休みの間は、忙しい……?」
 
 
 
 
 どこか、おっかなびっくりの問いかけに。
 オレは、思わず鼓動を跳ねさせ。
 




 だけど、「忙しい」としか言えない現状を、少しだけ呪った。




 「ごめん、休み中はちょっと」
 「そっか。……あ、でも、始業式の日、楽しみにしてるからね!」
 
 
 
 気分を変えるようにそう言ってくれたに。
 
 
 
 
 オレもまた、笑った。
 
 
 
 
 
 
 「オレも」
 
 
 
 楽しみに、してる。
 
 
 
 
 
 電話越しに聞こえる君の声。
 それが魔界での、オレの一時の休息。
 
 
 
 
 
 「ねえ、宿題で分からないところがあったら、電話してもいいかな?」
 
 
 
 からの思いがけない申し出に。
 オレは「仕方ないな」なんて応じつつも、どこか内心で嬉しがっていて。
 
 
 
 
 
 「いつでも、どうぞ」
 
 
 
 
 待ってるから。
 それは、まだ言えないで飲み込んだ。
 
 
 
 電話越しに伝わる君の気配に、オレも言葉に出さずに呟いた。
 
 
 
 君にまた会える日を楽しみに、頑張るよ、と。