<女心と秋の空>

 

 

『女心と秋の空』という言葉がある。

秋の空は、限りなく広がる青に見えたり、かと思えば、突然大雨になったり、そうかと思えば、夕焼けが美しく輝いたりするもの。
常に見ていなければ、その情景はあっという間に変化してしまう。

つまり、どちらも『移りやすい』という意味の言葉。

しかし、実際のところ、女心というものは移りやすいものではない。
突然変わってしまうように見えて、実はその変化に男が気付いていないだけなのだ……。

 

 

 

とある秋の日。
妖狐蔵馬は、気まぐれで人間界に来ており、とある古びた民家の近くの木の上で、空を眺めていた。
一見、ぼんやりとしているようで、実は全神経を気配を絶つことに使用しているのだ。
おかげで、誰一人彼の存在には気付いていない。
もし、彼の一番近くにいる男が気付いていたならば、今頃彼の首は地面を転がっているだろうから…。

東の空が白みだしたので、木から飛び降り、民家の裏手に回る蔵馬。
すると、民家から一匹の妖怪が現れ、広い庭に降り立った。
しばらくその場に佇んでいたが、意を決したように、その場から跳び上がり、いずこへともなく去っていった。

彼の気配が完全に感じなくなった頃、蔵馬は裏手から庭へ回った。
先程妖怪が立っていた位置から、民家を見やると、一番近くの部屋の障子が開いている。
見ようとしなくても、当たり前のように部屋の中は一目瞭然。

 

そこでは、一人の女が鏡台の前で髪を梳いていた。

腰を超す長い黒髪。
白い着物からもその肉体からも、鼻につく奇妙な香の匂いが感じられ、彼女が術師であることは明白だった。
しかし、普通の術師とは明らかに違う。
青白くやせ細っており、何かの病に犯され、死を目前に控えたような肉体…。
眼孔が鋭くなければ、今すぐにでも儚げに消えてしまいそうだった。

 

ふいに女が蔵馬に気づき、こちらを振り返った。
俯いている時ですら、その瞳の光の強さは分かり切っていたこと。
だが、実際に視線が交わると、更にその威圧感が増すようだった。

刺して見据えるような瞳……。

しかし、蔵馬はその瞳を見ても、平然としていた。
数多くの鋭い視線を受けてきた戦歴の持ち主であるということも一つの要因だろうが、彼が女と前々から知り合いであるということが一番大きいのだろう。

そもそもこの日、ここへ来ていたのも、この女に会うため…。
だが、先客がいたため、彼が去るまで、待っていたのだ。

 

 

 

「妖狐か。久しいな」
「ああ。疫病で朽ちた人間、持ってきたぞ。後、薬草も」

手にしていた袋を、どさっと縁側にほおり投げる蔵馬。
袋の口を縛っていた紐がゆるみ、そして中身が少しだけ見えた。
腐敗し、異臭を放つ肉塊…赤い斑点のようなものがあり、病によって朽ちたことは明白だった。
力無くダラリと下がった腕は、それが人間のものであることを裏付けている…。

そのあまりに哀れで、恐ろしい光景を見ても、女は動揺もせず、当たり前のように見ている。
櫛を鏡台へ置くと、縁側へ足を運び、袋の中を一望してから、紐をくくり直した。
そして顔を上げると、蔵馬を見つめ言った。

「いつも悪いな」
「別にこれくらい、いい……だが、必要なさそうだな」
「ああ」

蔵馬の言葉に、女は軽く頷いた。
彼の言ったことの意味は、本人である彼女が一番分かっている。
そして次に言われるであろう言葉も……。

「後…一年保たないな」
「それでいい」

袋を部屋の中へ運び、鏡台の向こうへ置くと、再び櫛を手にして、髪をすき始めた。
その様子を蔵馬は縁側に腰掛けて、眺めている。
しばらくの間、何も言わずに見ていたが、やがて屋根を見上げるように、視線をそらしながら、言った。

 

「そうだな。念願が成就されたんだろ」
「……何を言っている」

先程の凛とした佇まいで、誰にもひるまぬような女の顔に、僅かに変化が生じた。
それは、おそらく蔵馬ほどの男でなければ分からないような、微々たるものだったが…。
櫛を鏡台へ戻すと、キッとした顔つきになって、蔵馬を睨み付けた。
しかし、蔵馬は平然として言葉をつづった。

「とぼけるな。あの魔族、ずっと前から見てたろ……しかし、意外だな。お前が男に惚れるなど、思いも寄らなかったぞ」
「……悪かったな」
「悪いとは言っていない。意外だと言っただけだ」
「……」
「生涯独身を貫き、人を救うとタンカを切っていたのにな。まあ、20年も経てば、心も変わるか」

ふっと微笑を浮かべて、空を仰ぐ蔵馬。
釣られて、女も空を見る。
まだ日は昇っていない。
切れた雲の間から見える空も、まだ薄暗さを残していた。

 

 

 

20年前。
まだ幼かった彼女を蔵馬が見つけたのは、とある寂れた村でのこと。

といっても、ずっと前に滅んだわけではなかった。
つい最近、流行病であっけなく滅んだ…そんな感じだった。
もちろん、人間をむしばむ病など、蔵馬に効くわけがない。
大気には多くを殺した元凶が飛び交っていただろうが、何事もないように、村を歩き回っていた。

特にすることもなく、かといって仕事をする気分でもなかった。
理由はただそれだけのことだったが……。

 

ふいに生きた人間の気配を感じた。
振り返った先には、壁が壊れた古い民家。
周囲に家族らしい遺体が転がる中、朽ちた土間に倒れていたのは、幼い少女だった。

バサバサの黒髪が、無造作に土の上に広がり、俯せになっているため、顔はよく見えない。
パッと見、死体にしか見えないが、僅かに上下する胸が生きていることを証明していた。
しかしそれでも、病のためかやせ細り、今にも生命の息吹が消えそうだった。

 

「(…まだ生きているとは、大した生命力だな。まあ、そのうち死ぬだろうが……)」

死にかけた人間を見るのは、これが初めてではない蔵馬。
人の死が日常だった時もあるし、今更死にかけた少女を見ても、何の感情も浮かばなかった。
腐臭のキツい民家の中へ入る気になったのも、気まぐれに過ぎない…。

 

だが……誰かが近づく気配に気付き、最後の力を振り絞るように面を上げた少女に、蔵馬は圧倒された。

鋭い眼光。
とても人間とは思えない…何者も恐れない、強い視線。
死にかけているというのに、その瞳から放たれる力は強く、神か悪魔に近い光を宿していた。

 

自分を見ても、物怖じしない様子に、蔵馬は少しだけ興味を持った。
今まで自分を恐れない人間などいなかった。
この金色の瞳に睨まれたら最後、誰もが言葉を失い、その場にひれ伏すか、泣き叫ぶか…。
最悪失神した者もいたし、何を血迷ったのか、ショック死した人間までいた。

それがこの人間は違う。
蔵馬が少し視線をきつくしたところで、全く動じない。
むしろ蔵馬の心を見透かしたように、光を強くしたようだった。

こんな瞳を持つ者は、魔界でも滅多にお目にかかれない。
それも自分より明らかに霊力が下の者が……しかもこんな幼い少女なのに。

 

流行病ごときに殺せる相手ではない。
納得しつつも、惜しいと思った。

確かに精神は殺せないだろう。
彼女はまだあまりに幼かった。
このままでは、心は死なずとも、肉体が朽ちてしまう。

 

 

これほどの瞳を持つ者が、肉体の崩壊によって逝ってしまうのは、あまりにも惜しい。
気紛れのついでに、奇妙な人間に対する好奇心が、蔵馬に行動を起こさせた。

近くに転がっていた…おそらくは少女の身内の誰かであろう人間の遺体。
半分骨になっている死体から、軽く肉をそぎ落とすと、髪の毛から取り出したいくつかの薬草にくるんだ。
数十秒そのまま放置し、やがて開けると、内側の薬草数枚の色が変色している。
それらを細かくし、更に別の薬草などと合わせると、少女の口に押し込んだ。
そのままでは当たり前だが飲み込まないので、近くに落ちていたタライに溜まった雨水で流し込んだ。

抵抗するだけの体力がなかったのだろう。
少女は眼孔鋭く睨み付けていたが、大人しく飲み込むと、ゆっくりと意識を失っていった……。

次に気がついた時、少女が完全に回復していたことは言うまでもないだろう。
その頃には蔵馬の姿はなかった。

 

 

 

数年の後、成人した少女の前に再び蔵馬が現れたのは、またしても気紛れと好奇心だった。

あれだけの短い時間だったにも関わらず、少女は蔵馬のことを覚えていた。
助けられたことに対して礼は述べたが、それも一度きり。
恩は忘れないが、いつまでも引きずらないと、やはりあの鋭い目つきで言ったのは、とても興味深いもので…。
食脱医師になった彼女を、影で支えようと思ったのも、道理だった……。

「……それにしても、よくあんなことが言えたな。俺が恩着せがましい奴だったら、どうするつもりだったんだ。その場で殺しているかもしれんぞ」
「生かされるくらいならば、死を選ぶ…」
「だろうな、お前は……しかし、食脱医師になるとはな」

大人の女性になった少女を見やりながら、ため息をつく蔵馬。
ただの医師になるだけならば、別段驚きもしない。
まあ打倒なところだと思うだけだが、しかし食脱医師になるとは、思ってもみなかった。

だが、なったと聞いた時、不思議と納得していた。
「ああ、こいつらしいな」…驚きながらも、そう思ったのは、今でも鮮明に覚えている。

 

「あの時、食脱医師の道はお前にとって、適職だとは思ったさ。未だにきっかけは分からないがな…」
「……人は術が使えぬ。食わねばならんからだ、お前と違ってな」
「それはそうだろうが……まさか、俺と同じことがしたかっただけか? 俺がお前を助けたのは気紛れで、いつもやっているわけではないぞ」
「そのくらい分かっている。ただ…」
「ただ?」
「……いや、いい」

ため息をつきながら、蔵馬から視線をそらす女。
蔵馬は怪訝に彼女を見たが、答える気がなさそうなので、黙っていた。

本当のところ、女は聞いてほしいと思っていたところもあったが……聞かれないならば、黙っているのも悪くない。
墓の中まで隠し持っていくのもいい。
初恋のことなど、誰にも話さなくていいだろう……。

 

ずっと恋いこがれていたなど、自分には似合わない。
振り切ることも出来ず、ずっと引きずって……やっと諦めれたと思ったら、また男を好きになってしまった。
どうしても諦められなかった。
蔵馬の時と同じように……。

死を前にして、ようやく素直になる決心をした。
表向きは平常を装って……。

女心は簡単には変わらない、変われない。
どうしても、秋空のようにはなれないのだ……。

 

 

 

「これからお前はどうする?」

東の山が光り始めたので、女は立ち上がった。
そろそろ客が来るかも知れない。
蔵馬も姿を消さねばならないだろう。
庭へ下りながら、女を真っ直ぐ見つめて言った。

「そうだな。もうしばらくこの辺りにいる。お前のガキの顔も見てみたい」
「勝手にするがいい」
「そうさせてもらう」

僅かに衣擦れの音がして、蔵馬はその場から姿を消した。
残された女を、秋の眩しい朝日が照らしている…。
今日は晴れるだろうか?
いや、それは誰にも分からない。
秋は変わりやすい……女の心とは違って。

しばし、蔵馬が立っていたところを見つめていたが、やがて玄関の方で音がした。
同時に病の気配がする……。

「さて。行くか」

衣服を整えるべく、女は障子を閉めた……。

 

 

 

数ヶ月後。
女は子を産み、そして死んだ。
あれだけたくさんの命を救っていたのに、彼女の最期を見届けたのは、幼い我が子だけ…。
いや、蔵馬も影から見つめていたが……。

粗末な墓の前に立つ、幼い子供。
その背後に立ち、蔵馬は言った。

「どうする? お前の母はもういないぞ」
「……」
「来るか?」
「……」

こくんっと頷くと、子供は蔵馬を振り返り、蔵馬の金色の瞳をしっかりと見た。
女と同じ、鋭く強い光を放つ瞳で……。

 

いや、女と全く同じではない。
あの妖怪の…強靱で豪傑な光もあった。

この子の中で女も…あの妖怪も生きている。
もちろんあの妖怪は当分死なないだろう。
妖怪の寿命を考えれば、後数百年は……。
だが、例え妖怪が死んだとしても、その後も生き続ける。
その子が死んだ後も、更にその子供へと……。

 

 

それから数百年の時が過ぎ……蔵馬は再び出会った。

あの強い光を宿した眼を持つ少年と……。

 

 

 

 

〜作者の戯れ言〜

雷禅が食脱医師と出会った時、蔵馬さんは既に人間界にいた可能性もなくはないんですよね。
正確な年代は明らかになっていないから(多分だけど)
もしかしたら、こんなことがあったのかも……と、思い立って書いてみました。

しかし…内容暗い!
ついでに怖い!!
食脱医師さんへの道を歩ませた理由って…。
流石に蔵馬さんに人肉食べて貰うことは、恐ろしくて出来なかったんですが…(まあ時間的に無理があるというのも、ありますが)
何か最近、暗い路線を突っ走ってるような…。
管理人の現実は、結構楽しいこと満載で、毎日幸せのはずなんですけどね〜。