<邂逅> 1

 

 

 

「はあ…はあ……」

鬱蒼と生い茂る木々の間を、白い影が駆け抜けていった。
深緑や青鈍を中心とした色彩で彩られた世界で、真っ白なその姿は、否が応でも目立つものであった……。

 

 

ここは魔界。
閻魔大王の治める霊界、そして地球と呼ばれる人間界の下。
地下深く、幾重にも空間の重なる異世界。

階層によって、異なる性質を持つが、大体において言えることは、陰の気が強いこと。
そして、暗雲が空を覆い、雷鳴が轟いている……ということだった。

太陽が存在しないわけではない。
ただ、陰の気が渦巻くこの世界では、滅多にお目にかかれない…というだけ。

それでも、そこは決して息するもののいない枯れた地ではない。
数多くの動植物、あまたの妖怪たち、そして人間界において「人間」という立場にあるであろう魔族……。
数えきれぬほどの命が、そこには息づいていた。

 

だが、生きるということは、そう単純なものではない。
特に知恵をつけた者が「生きる」ということは、単純に日々の糧を得、己が命を守るだけではなかった。

そう。
まさに今この時、森を失踪する白き影…。
彼女を追いかけていたのは、「知恵をつけた者」の中に該当する連中であった。

高度な知恵ではない。
しかし、中途半端な知恵というものは、逆に高度な知能よりも数倍厄介であった。

 

「どっちへ行った!?」
「あ、あっちだ! あの木の向こう!!」
「逃がすな!! 珍しい白狐の九尾だ! 毛皮だけでも、高く売れる!!」

森に響き渡る怒鳴り声。
交わされる言葉は、穏やかとはほど遠い。

 

 

追われている白い影にも、当然のことながら、それはしっかと聞こえていた。

「…はあ…はあ…どう、しよう……」

振り返ることなく、ひたすら走る。

 

頭から足元までを覆う純白の毛並み。
焦りから若干細められた瞳は、黄に近い金色。
この魔界においてあり得ないほど、それは澄んだ色をしている。

名前は、瑪瑠。

“白狐”と言われた通り、彼女は白き狐である。
しかも、ただの狐ではない。
跳ね上がる度に、激しく揺れる9本の尾を持つ……九尾狐という妖怪だった。

 

白い狐というだけでも珍しいのに、更に妖力を得た九尾狐は、何百年に一度、発生するかしないかというほどの珍しさである。
彼女を追い回す男たちが、もう幾日も諦めないのも無理はないが、理由はそれだけではなかった。

これが全快の九尾狐であれば、諦める諦めない以前に、男たちなどとっくに振り切られている。
それほどまでに、瑪瑠の身体能力は並外れたものであった。

 

しかし今、彼女は傷を負っていた。
男らに追われる前日、醜悪な妖怪に襲われていた小鳥を助けたことで負った傷。
足でなかったのがせめてもの救いだが、軽いとは言えない傷だった

更に、その小鳥を群れに返しに行ったところ、その美しい色の羽を狙う連中がいた。
言うまでもなく、今、瑪瑠を追っている連中である。
瑪瑠は、自分に注意を引きつけ、鳥たちを逃がしたのだ。

彼女自身、鳥をエサとすることもある狐である。
そのことが逆に功を奏し、鳥たちは狐の姿に驚いて、大空へと羽ばたいていったのだ。
ただ1羽、彼女に助けられた小鳥だけは、親の後をついていきながらも、複雑そうな表情で瑪瑠を見ていたが……。

 

せっかくの獲物を逃がされた男たちの激情ぶりは半端ではなかった。
しかも、相手は鳥よりも高く売れる九尾の白狐。
挙げ句、最初から手負いである。

諦めるわけが、なかった。

 

 

 

「…このままじゃ…追いつかれ…ちゃう………きゃっ!!」

突然、何かにぶつかり、転がる瑪瑠。
ちゃんと前を向いて走っていた。
いくら薄暗い森の中といっても、元々夜行性である。
目前に何があるかくらいは見えていたはずなのに……。

しかし、驚いている場合ではない。
即座に起き上がり、もう一度走り出そうとした。
が、前足を伸ばした瞬間に、何もないところに肉球が触れた。

 

「え…?」

もう一度、目の前をしっかと見る。
だが、何もない。
まるで見えない壁に阻まれているようだった。

 

「な、何で……」

「あ、いたぞ!! あそこだ!!」
「よしっ! 止まってるな!! チャンスだ!!」

「!!」

背後に迫る無数の声に、瑪瑠は青ざめた。
もはや引き返すことも出来ない。
進むことも出来ない。

万事休すと思われたその時だった。

 

 

 

『…こっち…こっちだよ』
「えっ…」

突如、声が聞こえた。
追ってきている男たちのものではない。
決して高い声とは言えないが、成人した男のものとは明らかに違っていた。

何より、声が聞こえてきた方向が違う。
声は……瑪瑠の正面から、見えない壁で阻まれた向こう側から聞こえてきていた。

 

『こっち……もう少し、右に』
「み、右?」

やや混乱しつつも、言われた通りに右へ移動する。
と、声がまた言った。

『あ、違った違った。貴女から見たら、左! 左!』
「え? ひ、左なの??」

慌てて方向転換し、左へと動く。
そして、5歩も動かない内に、変化が訪れた。

 

「な、何っ!?」

まるで何かに引っ張られるように、身体が浮いた。
同時に、身体を包む気が変わる。
魔界独特の湿った空気ではなく……そう、滅多に見ることのない太陽のような。

反射的に閉じた瞳をゆっくり開けてみると。
そこは先ほどまで走っていた、細かな草木が生い茂る森ではなかった。

 

 

眼前にあったのは、巨木だった。
数千万年前に化石化したと言われる億年樹ほどはあるだろう。
しかしそれは生きた樹だった。

幹に触れると、小さな鼓動が聞こえ、水をたたえていることが分かる。
永い時を生きてきたのだろう。
太い幹にいくつか亀裂が走っていた(中には瑪瑠の身体の倍はありそうな傷もある)。
が、それでもその大きさ故に、他で補うことが出来ているらしい。

しかも、その亀裂の間から、キラキラと光がこぼれていた。
決して強い光ではない。
だが、薄暗い森の中を走ってきた瑪瑠にとっては、とても明るい光だった。
まるで樹が内部から輝いているような……。

 

「すごい…でも一体……」

何故、突然現れたのだろうか?

空気が変わった感触はあったが、亜空間を横切った感覚はなかった。
境界トンネルを越えたりしたわけではない。
つまり、瑪瑠が大幅に移動したわけではなく、この樹が突然現れたと考えた方が、自然なのだが……。

 

 

「こっち…」
「!」
「こっちだよ…」

またあの声がした。
けれど、先ほどとは若干違う。
あの、何処から響いているのかも分からない声ではなく、どちらから聞こえてくるのかはっきりと分かる声だった。

そしてそれは、この巨木から聞こえてきていた。

「樹が喋ってる……わけじゃないよね」

反響しているが、樹自身というよりは、樹の中から聞こえてくるようだった。
おそるおそる幹の亀裂に、前足を伸ばし、そっと中を覗き込んでみる。
しかし、見えたのは幹の中に、また幹。
少し首を入れて覗き込んでみると、その幹にも別の所に亀裂が走り、そちらから光が漏れていた。

 

「こっちだよ」

覗き込んだせいか、声が先ほどよりも大きく聞こえた。
少し躊躇った末、瑪瑠は中へ入ってみることにした。

巨木を前にしてから、追ってきた男たちの声は聞こえなくなったが、それでも瑪瑠が空間移動したわけではない以上、追ってこないとも限らない。
引き返すわけにはいかないし、かといってこのまま此処に留まっているのも危険だろう。

巨木の中が安全とは限らない。
この樹が何なのか、また声の主が誰なのかも分からないのだから。

けれど。
何となく。

 

「(悪い声じゃ…ない気がする……)」

確証はない。
だが、本能的に感じてとっていた。
その声に、殺意や悪意、敵意がないことを。

そして何となくだが……それ以外の何かも、感じていたのだった。

 

 

 

声にしたがって、巨木の中へと進んでいく。
近づくにつれ、声も段々大きく聞こえる。
それでも叫んでいる様子はなく、ただ呼んでいるだけだった。

そして、ひときわ大きな亀裂を抜けた時だった。

「わあ…」

突如、広い空間に出た。
此処があの巨木の中だということをさっ引いても、広々とした場所だった。

 

おそらくは樹の中心部。
四方を覆う幹は、瑪瑠が入ってきた以外に亀裂はなく、触れなくても水を吸い上げ、養分を下ろしていることが分かるほど、生き生きとしていた。
その手前には数多の物が置かれていたが、瑪瑠には何なのかよく分からなかった。
頭上を見上げれば、太い枝が格子状に重なり合って、空を覆い隠している。

けれど、そこはとても明るい空間だった。
上から注ぐ光ではない。

光はほとんど瑪瑠の真正面から放たれていた。
明るいが、強い光ではない。

 

金色の瞳に、はっきりと映し出されたのは、キラキラと光る鞠。
そして、それを手にした、一匹の妖怪だった。

 

シンプルな瓶覗色の衣装を纏い、赤橙色の長い髪を編んで垂らしている。
髪の間から見えるのは、褐色の獣耳。
腰辺りからは、髪と同じ色の狐の尾……。

瑪瑠は驚愕する自分を止められなかった。

顔かたちは似てもいない。
配色も全く別物。
年齢だって、性別だって、まるで違う。

けれど……。

 

「…妖…狐……」

 

間違いなく、妖狐。
そう。
瑪瑠がずっと探し続けてきた『彼』と同じ、狐の妖怪だった……。